1:1 ヨハネ1:1の注。493(1)
1:1 肉体となった神の子に接したこと。グノーシス等異端がキリストを幻としたのに対する(1ヨハネ4:2)。493(2)
1:1 ヨハネ1:1の注。493(3)
1:2 キリストはいのちであり、人にいのちを与える(1ヨハネ5:11、4:9)。493(4)
1:3 真の交わりはまずひとりひとりが父とみ子と共にあることにはじまる。異教は人間の交わりの中に神を迎えようとする。493(5)
1:4 ヨハネ文書の基調のひとつ(ヨハネ15:11)。493(6)
1:5 福音書ではキリストが光であるが(ヨハネ1:4以下)、神とキリストは相関的であり、一体である。493(7)
1:6 重要なヨハネ思想で、永遠不変のものを指す(ヨハネ1:17)。光との結びつきはヨハネ3:21。493(8)
1:7 罪のない神の子が十字架上に流された血が人間の罪をあがなう。493(9)
2:1 ヨハネ14:16の注。神の子と聖霊とは相関的であり、父なる神とともに三位一体をなす。495(1)
2:2 キリストに罪がなく、彼は義であるがゆえに彼によってすべてのものの罪があがなわれる。495(2)
2:2 悪のこの世全体の意。495(3)
2:3 単なる知識でなく人格的関係に入ること(エレミヤ31:34)。495(4)
2:3 古い義務的な律法でなく、イエスによって示される新しい愛のいましめである。神の子の愛によって救われるがゆえに、よろこびをもって彼の招きに応じて生活するためのものである。このいましめは重荷ではない(1ヨハネ5:3)。495(5)
2:6 深く関係する意でヨハネ文書に多い。495(6)
2:6 イエスの模範に従うこと(1ヨハネ3:3以下、16以下、ヨハネ13:15、34)。495(7)
2:7 1ヨハネ1:1(ヨハネ1:1)とキリスト来臨以来(ヨハネ15:27)との両方をさす。495(8)
2:8 イエスは旧約を成就する(マタイ5:17)。彼のいましめは形としては新しく見えずとも、旧約では義務であったものが新約で特権となった点で新しい。今までになかった救いが万人に与えられつつあり、この新しい事実は、イエスの地上の生涯の時にも、彼の復活を信ずるものの間でもおこったことであり、歴史を通じて、現代にもおこりつつある。495(9)
2:9 キリストは光であり(1ヨハネ1:5)、彼は神の愛の現われである。それゆえ愛の中にいないものは闇の中にいる。495(10)
2:13 キリストのこと(1ヨハネ1:1、ヨハネ1:1)。直弟子の時代につぐ若い世代の人も彼の愛の力で悪者に勝つことができる。14節も同じ趣旨である(1ヨハネ4:4)。495(11)
2:15 神に敵する悪の世(ヨハネ1:10以下)。495(12)
2:17 1コリント7:31。495(13)
2:18 1ヨハネ4:1以下、2テサロニケ2:3以下、マタイ24:23以下。495(14)
2:19 反キリスト(複数)は背教者である。495(15)
2:20 キリストを指す(27節のゆえに)。495(16)
2:20 キリストは油そそがれた聖なるもの。信徒も彼のごとく油そそがれたものとして聖められる(2コリント1:21)。495(17)
2:22 イエスという実在の人格をキリストと信ずるのが正統である(1ヨハネ4:2)。497(1)
2:23 ナザレのイエスを神の子と信じて、はじめて彼の父なる神が真の神であることを信じうる。497(2)
2:24 1ヨハネ2:7の注。497(3)
2:27 ここでは事実上、聖霊と同じである(使徒10:38)。助け主とも相通ずる(ヨハネ14:26)。497(4)
2:29 自力で義を行なうのでなく、義にいます神の子の恩恵に生きることであり、それは愛と同じである(1ヨハネ2:10など)。497(5)
3:1 呼ばれています、とも訳せる。497(6)
3:1 不信のこの世は神もキリストも信徒も認めない(ヨハネ17:25)。497(7)
3:2 主語は前節の父から子へと相関的に移る。キリストの再臨のとき信徒は彼のごとく罪のないものになる(コロサイ3:4)。救いへの招きと完成との段階は信仰の次元では時間を超える現実である。497(8)
3:4 背教者が自らを合法と主張するのに対していう。497(9)
3:6 神の国の完成のとき義なるキリストのごとくされるという約束がすでに実現したものとする終末論的発言である。信仰の次元では時間を超え、未来が現在と結びつく。497(10)
3:9 霊(24節)ともことば(1ヨハネ1:10。2:14)とも取れる。いずれもキリストによるいのちである。ルカ8:12、1ペテロ1:23。497(11)
3:9 6節と同じ趣旨。497(12)
3:11 ヨハネ13:34。497(13)
3:12 創世4:1以下。497(14)
3:14 キリストによる新生のこと(ヨハネ5:24)。497(15)
3:15 愛は生かし、憎しみは殺す。憎しみや怒りと殺人とは同じである(マタイ5:21以下)。497(16)
3:16 われらはキリストのごとくありえないがゆえに、彼のあがないを必要とするが、あがなわれた今は彼に従う苦難と死は恩恵となる。497(17)
3:18 口先きだけ、あるいは空理空論は徒(いたず)らである(1コリント4:20)。グノーシスなど異端は十字架なし、したがって愛なしである。ヨハネ13:34、15:12。499(1)
3:20 全能の神は人の心を知りたもう(ローマ8:27)。499(2)
3:23 ヨハネ13:34、15:12。499(3)
4:1 反キリスト(3節、2:18)と同じような人々(マタイ24:24)。499(4)
4:2 歴史上存在した人格を指す。ナザレのイエスの実在を否定して抽象的にキリストを幻とする仮現説をヨハネは異端として排斥する。499(5)
4:3 キリストは地上に再臨するが、それは今実現しつつある。499(6)
4:4 反キリストの徒。499(7)
4:5 ヨハネ15:18以下。499(8)
4:6 2節はキリストにより、ここでは信徒によって霊の真偽の判明がなされる。なお、キリストから信徒への推移は12節の注参照。499(9)
4:7 1ヨハネ2:3の注。499(10)
4:9 ヨハネ3:16、ローマ5:8。499(11)
4:10 愛は神の側から恩恵として与えられるものである(2コリント5:19)。499(12)
4:12 ヨハネ1:18と比べると、キリストから信徒への推移が見られる。499(13)
4:13 聖霊のはたらきである。499(14)
4:14 三位一体を指向する。499(15)
4:18 愛は全能の神から与えられる力であり、おそれに閉ざされた奴隷状態から解放されて神の子にされるのである(ローマ8:15)。したがって神からの恩恵としての愛の中に生き、それを行なうものはおそれから解放されている。499(16)
4:19 1ヨハネ4:10。499(17)
4:20 ヨハネ3:12。地的人間関係と天的神関係とは不離であり、すべては愛なる創造主のみ手のうちにある。499(18)
5:1 1ヨハネ4:15以下。501(1)
5:2 水平の人間関係と垂直の神関係とは相関的である。501(2)
5:3 ヨハネ14:15。501(3)
5:3 マタイ11:30(申命30:11)。501(4)
5:4 全能の創造主とともにあるものは与えられた信仰によって被造物であるこの世に勝つ。501(5)
5:6 ヨハネ19:34。水は洗礼、血は十字架上の死を指すとの両意がある。501(6)
5:7 証人は三人必要とされた(申命19:15)。501(7)
5:8 考え方の形としては三位一体を説明する。7~8節の後代の異本に「天に父とことば(ロゴス)と聖霊とあり、この三者はひとつ」と加えられたのがある。501(8)
5:13 ヨハネ20:31に似る。501(9)
5:14 1ヨハネ3:22。501(10)
5:15 祈りの本質である。神意にかなうと、祈りが聞かれていることがわかる。イエスと父との関係がそうであった(ヨハネ11:42)。それゆえ彼は求めよ云々と教えた(マタイ7:7)。501(11)
5:16 聖霊を汚し(マタイ12:31)、悔い改めることのない罪(ヘブライ6:4以下)。自らを神として真の神と断絶する罪である。ヨハネ黙示録(20:6、14以下など)の第二の死もこれに当たる。501(12)
5:18 キリストのこと。501(13)
5:20 キリスト来臨のこと。501(14)
5:20 判断力。501(15)
5:21 エゼキエル11:19以下、1コリント10:14。501(16)