1:1 1コリント1:2。389(1)
1:3 エペソ書にしばしば用いられる(1:20、2:6、3:10、4:10、6:12)。389(2)
1:3 父、キリスト、霊の、三位一体的思想が見られる(2コリント13:13)。389(3)
1:4 キリストによる救いは創造以前からのわざである、という信仰で(ローマ8:29以下など)予定説といわれる。389(4)
1:7 貧しいものが救われて与えられる真の富(18節)。389(5)
1:8 罪のない神の子のあがないで救われるというこの世の人には愚かと見える信仰が真の知恵と分別となる(1コリント1:18以下)。389(6)
1:10 キリストの和解により彼を頭として(22節)、全被造物がまとまることをいう(コロサイ1:20)。エペソ2:16のユダヤ人と異教徒との和解の伏線となっている。389(7)
1:13 2コリント1:22。391(1)
1:14 キリストとともに神の国を継ぐこと(ローマ8:17)。391(2)
1:18 マタイ6:22、2コリント4:6。391(3)
1:20 キリストを復活させた神の力がわれらをキリストに導いて彼とともに復活させる。391(4)
1:21 ローマ8:38以下、1コリント15:24。391(5)
1:22 キリストはエクレシアの頭(かしら)でありまた万物の頭である(コロサイ1:18と2:10)。391(6)
2:1 罪は死に結びつく(ルカ15:24、ローマ6:21以下)。391(7)
2:2 天と違って地上に近いサタンの国。391(8)
2:6 救われてキリストのごとくなることがすでに完成したも同然という表現で、罪に汚れたまま義とされて聖徒である(エペソ1:1)のと相通ずる超時間的思想である。391(9)
2:10 無条件の救いの描写で、ローマ3:21以下に似る。罪あるまま義と認められるばかりでなく、罪がなくされ、罪の結果である死から解放されて救いが完成する。391(10)
2:12 旧約新約を通じて示される倫理的人格関係。イエスによる新しい契約がその完成である(1コリント11:25)。391(11)
2:14 十字架のあがないは神と人とを平和にし(ローマ5:1)、神の下に人と人とを平和にして結びつける。391(12)
2:15 キリストは分離の原因である律法の終わりである(ローマ10:4)。391(13)
2:15 2コリント5:17。391(14)
2:17 イザヤ57:19。391(15)
2:18 ここにも三位一体への方向が見られる。391(16)
2:19 13節を受け、異教徒も神の家の人となる意。393(1)
2:21 建物のたとえはパウロに多い(1コリント3:9以下など)。393(2)
2:22 信徒は神の住みたもう宮となる(1コリント3:16、6:19など)。393(3)
3:3 エペソ1:9以下にも記されるような回心(ガラテア1:16など)以来のパウロの救いの体験。そこに異邦人への宣教の使命感が与えられている(7節)。393(4)
3:5 ローマ15:25以下。すべて信徒は聖徒であり(エペソ1:1)、使徒であり(1コリント9:1以下)、預書者である(1コリント14:1など)。393(5)
3:6 異邦人は罪びとであり(ガラテア2:15)、その救いはイエス以前にはありえなかった。393(6)
3:8 1コリント15:9、1テモテ1:15。393(7)
3:10 ローマ11:33。393(8)
3:12 エペソ2:13、17。393(9)
3:13 悩みはキリスト信仰と不離であり(ローマ8:17以下)、それによってつらなる信徒はキリストと栄光を共にする。なお2コリント1:6、4:12参照。393(10)
3:15 黙示3:5などのように、神のところに名が記されているという思想。393(11)
3:16 キリストの栄光が真の富であり、彼を通して受ける霊が真の力である。393(12)
3:16 2コリント4:16など。393(13)
3:19 罪ある弱い人間がキリストのごとく義とされ強くされて、救いが完成する。393(14)
4:1 ピリピ1:7。393(15)
4:1 1テサロニケ2:12。393(16)
4:3 1コリント12:12以下。393(17)
4:4 ひとつ体とひとつ霊とが共に一致を指す。393(18)
4:8 詩篇68:18。393(19)
4:10 ピリピ2:6以下、ヨハネ3:13。395(1)
4:13 キリストの程度まで高められるところに救いの完成がある。395(2)
4:17 1テサロニケ4:5、マタイ5:47。異邦人の救いは異邦人との妥協やその模倣ではない。395(3)
4:20 イエスの教えの尊重である。395(4)
4:24 ローマ13:14。395(5)
4:28 自立するばかりでなく、乏しい人を助けるように、との積極的な勧めである。395(6)
4:30 聖霊が人格化されているが、ここではイザヤ63:10に似た意味である。395(7)
5:1 マタイ5:45、48。395(8)
5:5 1コリント6:9以下。395(9)
5:8 ローマ13:12、2コリント6:14、1テサロニケ5:5以下など。395(10)
5:14 出所不明の引用。395(11)
5:22 夫と妻のことは1ペテロ3:1以下にもある。397(1)
5:25 キリストがその体であるエクレシアのために自らをささげられたことが中心である。397(2)
5:31 創世2:24の成就である。397(3)
5:32 黙示19:7以下、21:9もキリストと信徒との間を婚姻にたとえている。ただし、いずれもキリストのことをたとえで説明するのが先で、人間の婚姻の上に聖姻の思想を発展させる異教的結婚至上主義とは根本的に異なる。397(4)
6:2 出エジプト20:12。397(5)
6:2 十戒の順序でなく、重要な、の意(マル12:29)。397(6)
6:3 申命5:16。397(7)
6:11 ローマ13:12、1テサロニケ5:8。武具はいろいろな形で精神化・比喩化されているが、悪との戦いははげしさを加えている。397(8)
6:12 エペソ2:2。397(9)
6:20 2コリント5:20。397(10)
6:23 ユダヤ人と異教徒との間に限らず、すべてについての平和のことであり、パウロ書簡の結びにしばしば出る(ローマ16:20、2コリント13:11)。398(1)