1:1 マルコ福音書などの他、新約に収められなかったペテロ福音書や断片的な資料が当時多かった。107(1)

1:1 イエスの出現によっておこったこと。107(2)

1:2 イエスの近くで、その活動を直接体験した人々。107(3)

1:3 当時知名な人にその書物を献ずる風習があった。同じルカの使徒記1:1にも見られる。107(4)

1:5 アビヤは24の僧族の一つ(1歴代24:10)。祭司は24の組に分かれ、順に宮で勤務した。107(5)

1:5 モーセの兄弟で祭司として活動した人(出エジプト4:14以下)。新約では、洗礼者が祭司の家に生まれたことと暗黙のうちに対比して、イエスが王族ダビデの末であったことが強調される(ヘブライ7:14以下など)。107(6)

1:7 年老いてから子ができたことは、イサクの母サラ(創世18:11以下)、サムソンの母(士師13:2以下)など多くの例がある。107(7)

1:9 くじはだれも異議を唱えないので、古代から神意をあらわすとされた(1サムエル10:20以下使徒1:26など)。107(8)

1:15 禁欲的であったヨハネ(ルカ7:33)のことがサムソン(士師13:7)らの例によって描写される。109(1)

1:17 メシアの先駆者エリヤのことがいわれる(マラキ4:5以下)のは、ヨハネがメシアであるイエスの先駆者という意味である(マタイ11:14)。109(2)

1:19 ガブリエル(ダニエル9:21)はミカエルやラファエルとともに神に近い天使長であり、啓示の伝達に大きな役を果たした。109(3)

1:20 唖者になったとは、神意の介入による偉大な出来事は人が口にしえないという思想のあらわれである(詩篇39:1以下)。109(4)

1:22 幻は神の啓示であり、イエスの復活(ルカ24:23)とパウロの回心の場合(使徒26:19)に用いられる。109(5)

1:25 古代に妻に子がないのは恥であったので、それが除かれたよろこびは大きかった(創世21:630:23など)。109(6)

1:27 ヨセフがダビデの末であることはイエスの系図(ルカ3:23以下)その他にも出る。109(7)

1:33 ダビデについて2サムエル7:13でいわれているのに似る、ヤコブのことはイザヤ9:8にでる。109(8)

1:34 清純なおとめのことばであり、内容的にはマタイ1:18と同じである。109(9)

1:35 聖霊その他全能の神の介入をあらわす。イエスは神の子であるがゆえに人間とはちがった清らかな形で聖霊によって生まれたという信仰の表現である。109(10)

1:46 以下ラテン訳の最初の単語によって Magnificat (あがめる)と呼ばれる讃歌。旧約(詩篇111:9など)の引用が多い。109(11)

1:68 以下ラテン訳の最初の単語によって Benedictus (ほむべきもの)と呼ばれる讃歌。ここにも旧約の引用が多い。111(1)

1:69
角は力を象徴する(詩篇89:17など)。111(2)

1:73 ミカ7:20詩篇105:8以下106:45レビ26:42参照。111(3)

1:75 敵からの救いは敵を負かすことでも報復することでもなく、神に仕えることである(ローマ12:19以下)。111(4)

1:76 マラキ3:1イザヤ40:3111(5)

1:77 ヨハネは罪のゆるしへの悔い改めの洗礼を説いた(ルカ3:3)。111(6)

1:78 光はメシアの来臨を示す(マラキ4:2など)。111(7)

1:79 イザヤ9:259:8詩篇107:10111(8)

1:80 クムラン文書は荒野での子弟の教育のことをいう。ヨハネはきびしい環境で成長したのであり、この点、縁のナザレで育ったイエスとちがう。111(9)

2:1 ルカはローマ皇帝の名を挙げて(ルカ3:1)、歴史的な規定と、ことが片すみにおこったのでないこと(使徒26:26)を示す。アウグストゥスは在位前30~後14年で「ローマの平和」を築いた皇帝。ユダヤ人に対しても寛容であった。111(10)

2:2 クレニウスは前12年以来勢力のあった人。古代に国勢調査が行なわれたことは事実である。113(1)

2:4 ダビデのことが強調される。ベツレヘムでの誕生は後にイエスがダビデの末であることが重要視されはじめてから取り上げられた史実と解すべきで、虚構な物語ではない。113(2)

2:9 イエスを神の子と信ずる立場からその誕生が超自然的に描写されることを理解すべきである。113(3)

2:14 イザヤ57:19113(4)

2:19 マリヤのことはルカ2:51にも出る。彼女は初期の信徒の集まりに属していた(使徒1:14)。ルカのいう(1:2)目撃者のひとりと考えられよう。113(5)

2:21 イエスは当時普通の人名であった(マタイ1:21の注)。神から天使を通じて示された名の形が普通の人名であったところにロゴスの受肉(ヨハネ1:14)の意味がある。113(6)

2:22 レビ12:6113(7)

2:23 出エジプト13:2以下113(8)

2:24 小羊でなく鳥をささげたのはヨセフが裕福でなかったからである(レビ12:8)。113(9)

2:29 以下ラテン訳のはじめによって Nunc dimittis (今やお暇を賜う)といわれる歌。イザヤ40:552:1042:613が引かれている。113(10)

2:33 ここでヨセフとマリヤが父と母といわれる(ルカ3:23)。イエスの両親(ルカ2:4143)ともいわれる。清純なおとめマリヤから聖霊によって生まれた神の子は人間としてはダビデの末であるヨセフの家の人であった。113(11)

2:34 イザヤ8:14以下。イエスの生涯と死と復活においてこれが実現する。113(12)

2:41 イスラエルの男子は年に三度祭りに出る義務があった(出エジプト23:14以下)。マリヤの同行はエルカナの家族(1サムエル1:21)と似る。115(1)

2:42 ユダヤの少年は十二歳で律法の子といわれた。ダニエルは十二歳で預言者になったという伝説がある。115(2)

2:49 少年イエスの無邪気な発言が後の神の子への信仰によって回顧的に描かれている。115(3)

2:52 1サムエル2:26115(4)

3:1 ルカ2:1のようにローマ皇帝の名を挙げる。ティベリウスはアウグストゥスの嫡子で在位は紀元14~37年。115(5)

3:1 ヘロデ大王(ルカ1:5)の子ヘロデ・アンテパス。領主ヘロデといわれる(ルカ9:7使徒13:1)。ガリラヤとペレアを紀元前から後39年までおさめた。115(6)

3:1 イツリアとテラコニテはレバノンの東南地方。アビレネはダマスコの西の地方。115(7)

3:2 アンナスとカヤパは順に大祭司となった。115(8)

3:3 罪の清めの洗いは旧約にある(イザヤ1:16など)。ヨハネは当時堕落した浴みに旧約的な倫理性を盛って実践したのである。115(9)

3:6 イザヤ40:3以下115(10)

3:8 血縁ないし民族を誇るものへの警告。115(11)

3:11 ヨハネは群衆一般にも取税人にも兵卒にも転職その他の無理な要求をしない。民に健全な倫理感覚をすすめたのである。115(12)

3:15 ローマ帝国下にメシアすなわちキリストによる解放の希望が大きく、群衆はヨハネにその期待をかけたが、ヨハネは謙虚にイエスを指す(ヨハネ1:19以下)。115(13)

3:16 聖霊と火の結びつきはほか(使徒2:3以下)にもある。ヨハネは水による行為で、イエスは聖霊による恩恵で救いを示した。115(14)

3:21 「イエスも」の「も」が大切で、彼の両親が割礼を受けたように(ルカ2:21)、彼自身も当時の多くの人々と同じくヨハネのもとで洗礼を受けた。117(1)

3:22 詩篇2:7イザヤ42:1参照。117(2)

3:23 22節の神の子に対してここでヨセフの子とある。系図はヨセフからさかのぼる。マタイ1:1~16もヨセフに至る。神の子の次元と人の子の次元とがイエスによって結びつけられている。系図の意味についてはマタイ1:1以下の注参照。117(3)

3:38 アダムに至るのはキリストを第二のアダムとする思想による(ローマ5:12以下)とも取れるが、すべては神に至っている。イエスは形としてはアダムの子孫、しかし全く新しい神の子である。117(4)

4:2 場所として荒野はヨルダン川畔とガリラヤとの中間であり、時間的にはイエスが洗礼者ヨハネを離れて後のことである。117(5)

4:3 9節とともに当時の神の子の通念がイエスへの誘惑になったと解せられる。117(6)

4:4 申命8:3117(7)

4:8 申命6:13117(8)

4:11 詩篇91:11以下。悪魔も聖書を引用する。聖書の文学は信仰の規準でなく、神への信従が中心的である。117(9)

4:12 申命6:16117(10)

4:13 三つの試みは他宗教にも共通点の多いいわゆる奇跡や世俗的権威への誘惑である。この誘惑はゲツセマネの祈り(ルカ22:40以下)で最高潮に達する。イエスはそれに打ち勝ったのである。117(11)

4:16 会堂は礼拝と教育の場であり、聖書の朗読が行なわれる風習があった。117(12)


4:19 イザヤ61:1以下58:6以下。貧しいものへの福音(ルカ6:20)はイエスの教えで重要な位置を占める。117(13)

4:24 故郷での拒否はマタイ13:54以下マルコ6:1以下にもある。故郷に限らずイエスの生涯全体が彼の愛した人間からの拒否であった(ヨハネ1:11)。彼はその人間のために死んだのである。119(1)

4:26 1列王17:9119(2)

4:27 2列王5:14119(3)

4:35 39節以下と同じく古代では病気や悪霊が人格視されていた模様を示す。119(4)

4:40 安息日のいやしはユダヤ教で禁止されていたので、人々は安息日の終わる日没以後にいやしを求めたのである。119(5)

4:42 イエスの主目的はいやしでなく、神の国の福音の宣明にあった。それゆえいやしを求める群衆を避け、また他の町々をも訪れたのである。福音の実りがいやしとなり、このことが安息日に多かったので安息日を破ると非難されたことも注目すべきである。119(6)

5:6 イエスは漁業にもすぐれていたと推察される。119(7)

5:8 権威あるものの前に抱く畏敬の念は自らの弱さを自覚させ、罪の意識をおこす(イザヤ6:5)。119(8)

5:11 この話とヨハネ21章とが似ているが、ガリラヤ湖でのイエスによる大漁の体験が復活信仰によって再体験されたと考えられる。119(9)

5:12 らい者は隔離されるべきであるが(レビ13:46)、それにあえて手をのべたイエスによって救いが与えられたのである。121(1)

5:14
沈黙命令は隠れた善行のゆえのほかに、いやしの結果がそれを当てにする群衆を引きつけること、大勢の群衆は権力者から危険視されることなどのためである。「祭司に見せ」以下についてはレビ13:49参照。イエスが伝統に忠実であった面を示す。121(2)

5:20 個人でなく数人の人の熱意がイエスを動かしている。121(3)

5:21 イエスが神の名をみだりに唱えなかったので(出エジプト20:7)、彼の敵が誤解したとも取りうるが、敵意がつのれば何ごとも攻撃の材料となる。121(4)

5:23 イエスは直接反論せずにいやしを実践する。全体として罪のゆるしが人に心身の健康を与えることが示されている。121(5)

5:24 人の子には人間イエスと神の子キリストとの両面があるが、この話が伝わって行くにつれてイエスの権威を示すことになったと解しうる。121(6)

5:27 カペナウムは東西交通の要路なので収税所があった。取税人は異教徒ローマ人に仕えるので不信仰の反逆者としてユダヤ人からきらわれていた。性格の弱い人が多かったのであろう。121(7)

5:32 いやしの話につづいて病人と罪びとの双方が並べられるのは、心身の弱さを救う神の愛を示す。121(8)

5:33 洗礼者ヨハネと違ってイエスの日常は禁欲的でない(ルカ7:34)。しかし人間の救いのため自分のいのちをささげるという深い意味での禁欲のことがここで示唆される。121(9)

5:36 ここでイエスによって全く新しい救いの道が開かれたことがいわれる。121(10)

5:39 古い伝統に生きるものは新しいものを欲しない。121(11)

6:1 ユダヤ教は各地の信徒の結束を図るため安息日制度を拡充し、農耕、食事、治療などを規制した。123(1)

6:3 1サムエル21:1以下123(2)

6:4 ダビデが自由に振舞ったことが論拠である。123(3)

6:5 安息が人のためであることをいう。真の安息の重要さのゆえに、イエスは律法の義務から人間を解放したのである。123(4)

6:6 イエスはいやしのためでなく教えのために安息日に会堂に入ったが、教えが人をいやしたので(ルカ4:31以下)、それを確保したのである。律法は人を殺し、福音は人を生かす。123(5)

6:11 パリサイ人らは自らの立場を第一義的に考えるがゆえに怒るのである。123(6)

6:12 ルカは祈るイエスをたびたび示す(ルカ3:215:16など)。聖霊のことが何度もいわれるように(同4:1など)、神の力の介入をあらわす。123(7)

6:13 多くの弟子の中から十二人が選ばれている。その名は福音書によって多少異なるが十二というイスラエル族の数が大切で、イエスの権威を示す(マタイ19:28)。123(8)

6:20 この「垂訓」はマタイ(5~7章)より短いが、わざわい(24節以下)などルカだけのところもある。イエスはいろいろな機会に教えているから、マタイ、ルカそれぞれが編集したと見られる。教えの相手は主として弟子である(マタイ5:2)。123(9)

6:20 ルカは貧しい人々のことをたびたびいう。貧しさと謙遜とは結びつく(詩篇22:26など)。マタイの「霊に貧しい人」(5:2)と結局は同じである。ここに列拳される貧しさ、飢え、涙、迫害などはイエスの生涯を反映する。「今」と23節の「その日」が並べられるが、真のさいわいが約束されているがゆえに、信徒は時をこえたさいわいの次元に入りうる。123(10)

6:24 さいわいとわざわいとの対比はルカの筆致による。よい僕(しもべ)と悪い僕(ルカ12:35以下)、金持ちと貧しいラザロ(同16:19以下)、パリサイ人と取税人(同18:9以下)などの例がある。123(11)

6:27 「敵」とはある時と所で自らをそこなうものすべてを含む。愛敵は道徳として旧約(箴言25:21)にも他宗教にもあるが、イエスの場合苦しめられても打ち返しえない弱者へのなぐさめであり、それは自ら無抵抗の道を歩んで十字架の死に至った彼の生涯を反映する。125(1)

6:32 罪びとへの批判は、救われるものが罪と死から解放されて義といのちへとよみがえる方向を示す。ここで神の子となるといわれるのはその完成の状況である。125(2)

6:37 裁きは自らを上に置くが、イエスは下へ下へと行って神の愛を示す。「与える」 to give と「ゆるす」 to forgive とは相通ずる。125(3)

6:42 この所全体に神の愛とそれを実践するイエスの生涯が投影する。125(4)

6:43 行ないの重視は福音書にたびたび出る(ルカ8:21など)。パリサイ人は言うだけで行なわないといわれる(マタイ23:3)。しかしイエスは律法的に行ないを命ずるのではなく、隣人愛の徹底のうちに示される真のさいわいへと導こうとするのである。125(5)

7:1 カペナウムは交通の要所で、ローマ軍の一拠点である。親ユダヤ人(5節)の百卒長がイエスへの軍人らしい率直な信頼のゆえに、イエスの力あるわざがなされたと考えられる。125(6)

7:11 ナインはガリラヤ南部の町。127(1)

7:17 この話全体がエリヤ(1列王17:17以下)とエリシャ(2列王4:33以下)両預言者の蘇生物語に似る。イエスがエリヤの再来といわれたこともあり(ルカ9:19)、彼の力ある業が土台になってこの物語が伝えられたと考えられる。事の物理的経過を求めるのは無理であり、やもめへのイエスの愛の業の描写が復活信仰によって生気ある形をとったことを理解すべきである。127(2)

7:19 待望の救世主の意(ルカ3:16)。127(3)

7:22 イザヤ29:18以下61:1以下。ヨハネは禁欲的であり、また当時の権力者と対決して捕えられるなど、全体としては旧約的である。イエスは貧しく弱く、罪あるものの救いを目ざしたのである。ここにヨハネが、また多くの人がイエスにつまずくわけがある。127(4)

7:27 出エジプト23:20マラキ3:1イザヤ40:1以下。預言者によって待望された先駆者としてのヨハネを高く評価しつつ、イエスは福音によって救われる人々を上位に置く。ここに旧約と新約との関係の秘義がある。127(5)

7:31 旧約と新約との双方を拒否する時代への批判である。127(6)

7:35 知恵は神の属性として人格化される(箴言1:20以下8:22以下)。127(7)

7:36 イエスとパリサイ人とは律法重視その他の共通点が多く、はじめは友好関係にあった(ルカ11:3714:1)。しかしイエスが律法を守れぬ罪びとへと隣人愛を徹底させたのにパリサイ人は反発した。127(8)

7:37 香油は王(1サムエル10:1)、預言者(1列王19:16)らに注がれる貴重なものであった。メシア、キリストは「油注がれたもの」の意である。129(1)

7:47 愛への報いとして救いが与えられるのではない。罪をゆるされた感謝が多くの愛となり、多くの愛を示したがゆえに多くゆるされることがわかるという意味である。129(2)

8:3 イエスによって心身の健康を与えられた人たちが私財で奉仕したことが初期キリスト教の成立に貢献した。序でながら、これらの人々もルカのいう「目撃者」(ルカ1:2)の一部と考えられる。129(3)

8:4 種のたとえはプラトンらの哲学にもあるが、内容としての福音がイエス独特である。129(4)

8:9 群衆と弟子たちとが区別される。前者は不特定多数の流動的な群れ、後者は少数の忠実な協力者である。そして、話全体が真にイエスに従うものは少なかったという事実を反映している。129(5)

8:10 イザヤ6:9。悟らなかったという結果が目的化されているのは、神意に目的を見る見方である。また「奥義」は低いところで少数者に啓示される。パウロもこれをしばしば用いる(ローマ11:251コリント15:51以下など)。129(6)

8:16 隠れた神とともにあるものが隠れたままでなく、光りかがやく神の国の完成のときあらわになるという希望を示す。129(7)

8:18 ルカ19:26にも出る。形としては当時の諺であろうが、内容は与えられた福音の種がいかに小さくともそれは神の国という偉大なものにつながることを示す。131(1)

8:19 イエスは遁世の人ではない。苦しむ人々への奉仕を第一義的にして身うちを第二義的にしたものである。131(2)

8:22-25 イエスは教養広く経験豊かで、ガリラヤ湖の自然にも詳しかったのと、神への信仰が深かったので、嵐に際して適切な処置をとりえたのである。このことが神の子は自然をも制御する権威をもつというこの奇跡物語として伝えられる。131(3)

8:26 マタイ(8:28)ではガダラ人である。ガリラヤ湖岸からはガダラの方が近いが、広く湖の彼方の地と考えてよい。131(4)

8:27 当時の精神病者の姿である。当時病は悪霊のためとされ、悪霊は人格化されていた。131(5)

8:30 レギオンはローマの軍団の名であり、この話は豚を神聖視したローマへの勝利を物語る。131(6)

8:37 住民がイエスに退去を求めたこと、イエスが出来事を広く伝えるよう命じたことなど、異教的な地域での活動の模様を反映する例外的な物語である。131(7)

8:40 カペナウム(マタイ9:1)でのことである。そこには会堂があった。131(8)

8:44 「うしろから」は長血は汚れたもの(レビ15:25以下)のゆえである。さわるのはいやしの力が移ると考えられたからである。131(9)

8:51 イエスの直弟子のうち最も近い三人であった。133(1)

8:55 元来仮死であったという説もあるが、神の子の権威を示すこの物語から事の生理的経過を引き出すのは無理である。133(2)

9:1 イエスは独走せずに弟子たちに仕事を分かった。133(3)

9:3 生活の心配をするなとの教え(ルカ12:22)と似ており、神への信従と人への愛が生活問題を解決することを示している。133(4)

9:5 福音を必要とする人々にだけ伝えよという意味が含まれている。133(5)

9:7 イエスはこの世の勢力を求めなかったが、人が大勢イエスの所に集まることは領主を恐れさせたのである。133(6)

9:8 当時、偉大な人はのちに別の人に再生すると信ぜられていた。133(7)

9:10 教えといやしの一日が暮れるころ、イエスと弟子たちは手持ちの食物をすべて群衆に与えた。人々は僅かのものを感謝をもって食した。愛とよろこびが充実感を与えたところにこの物語の意味がある。石をパンにするような、いわゆる奇跡をイエスは悪魔の誘惑として斥けている(ルカ4:3以下)。133(8)

9:18-21 多くの群衆はイエスをヨハネのような偉大な預書者とするのに対して、ペテロたちはキリストと告白する。しかしイエスは自らが苦難の死をとげることを告げて、いわゆるキリストとはちがうことを示す。133(9)

9:28-36 弟子たちの信仰体験である。はじめはモーセとエリヤと同列、のちにはイエスだけという点が重要である。135(1)

9:35 詩篇2:7イザヤ42:1など。135(2)

9:48 幼子、イエス、父なる神、という三段階がある。天地の創造主はもっとも小さいものを愛しうる全能の神である。135(3)

9:50 小さいものの救いのためには自らを小さいものとして意識し、従うと否とにかかわらず味方として協力すべきことの教えである。135(4)

9:51 ここから18:14まで、ルカの旅行記である。135(5)

9:53 サマリア人はユダヤ人と仲が悪かったので(ヨハネ4:920)、ユダヤの中心エルサレムを好まなかった。135(6)

9:54 2列王1:10以下135(7)

9:55 イエスの行き方はあくまで平和的である。135(8)

9:57-62 イエスは禁欲的な遁世を勧めたのではなく、神の国の福音の宣明をすべてに優先させたのである。イエスと親しいものが彼に従ってエルサレムに行き、初期キリスト教徒の群れに属している(使徒1:14)。137(1)

10:1 写本によって二人の差がある。70は7の10倍、72は12の6倍で、ともに古代で重んじられた数。創世10章の国民の数もテキストによって70または72である。イエスには十二弟子のほかに数十名の弟子があったことは確かである。キュプロス人マナソンも古い弟子といわれている(使徒21:16)。137(2)

10:4 2列王4:29137(3)

10:15 イザヤ14:13以下137(4)

10:19 詩篇91:13137(5)

10:20 諸霊の征服という伝道の成果よりも、名が天にしるされる救いの保証を重視するという恩恵中心の思想である。137(6)

10:21 ここで小さいものを救う神を讃美し、すべてを託された子としての自覚を持ち、さらにそれを見る目を与えられた弟子たちのさいわいがいわれる。137(7)

10:27 申命6:5レビ19:18139(1)

10:28 レビ18:5139(2)

10:30 エリコはヨルダン川に近い古い都会で、エルサレムの東約25キロ。139(3)

10:32 レビ人はレビ族で神殿に仕える人々(出エジプト32:27)。139(4)

10:33 サマリア人についてはルカ9:53の注を参照。139(5)

10:36 地理的、民族的、宗教的な差をこえて愛を示すのが隣人、として29節の問いに答える。139(6)

10:42 イエスは無為の黙想をすすめたのではなく、ルカ12:31のように神の国を求めることを第一義とする。139(7)

11:8 まして神は願いをかなえられないわけがない、との意を含む。ルカ18:5の不正な裁判人のところに似る。139(8)

11:13 神のみが義にいまし、人はすべて罪びとである(ローマ3:10)。139(9)

11:19 使徒19:13に遍歴の魔術師のことが出る。141(1)

11:20 神の指とは神の力のこと(出エジプト31:18など)。141(2)

11:22 イザヤ49:24以下141(3)

11:28 ルカ8:21の意味である。141(4)

11:40 ルカは心のことをたびたびいう(6:4512:34など)。ここで心からの善は清めその他の行事にまさることがいわれる。141(5)

11:49 知恵は人格化される場合が多かった(箴言8:22以下など)。141(6)

11:49 エレミヤ7:25以下141(7)

11:51 アベルとゼカリヤのことは旧約で最初と最後の殺人事件(創世4:8以下2歴代24:20以下)。141(8)

12:2 ルカ8:17と似るが、ここでは悪いことの暴露である。143(1)

12:4 ヨハネ15:15143(2)

12:6 低い単位の貨幣。143(3)

12:8 関係のあることを認める。143(4)

12:10 マタイ12:32143(5)

12:20 ルカ9:25と共通する。143(6)

12:32 富や勢力を求めずに小さいものの救いを目ざしたイエスに従うものの群れは小さかった。143(7)

12:33 禁欲的に否定するのでなく、天の宝の肯定である。それは地上では愛によって人に与えることに現われる。143(8)

12:41 この問いへのイエスの答えがここにはないが、マルコ13:37で明らかである。ルカ12:54で「群衆にも」とある。145(1)

12:49 火は聖霊と火との洗礼(ルカ3:16)を想起させる。145(2)

12:50 マルコ10:38。洗礼は水につかる肉体の死を示す(ローマ6:1以下)。ノアの洪水とも結びつけられる(2ペテロ3:6)。145(3)

12:53 ミカ7:6145(4)

13:1 ローマ帝国占領下のパレスチナには暴力革命がたびたび企てられた(使徒5:36以下)。ガリラヤは辺境なので、とくに不穏なことが多かった。ここは総督ピラトがそれを圧さえたことを示す。145(5)

13:4 エルサレムにある池(ヨハネ9:7)。145(6)

13:5 イエスは不幸を罪への罰とする通念に反対する(ヨハネ9:1以下)。むしろ他人の不幸を見て自らの罪を知り、神のなさけを受けて悔い改めるべきことを教える。悔い改めは恩恵である(ローマ2:4)。145(7)

13:6 ぶどう園にいちじくその他の果樹を植えることはめずらしくなかった。145(8)

13:9 マタイ21:18以下マルコ11:12以下にもいちじくの話があるが、ルカの場合、救い主の寛容なとりなしが示唆されている。145(9)

13:16 イスラエルへの所属を示す(ルカ19:9)。147(1)

13:19 詩篇104:12エゼキエル17:23147(2)

13:21 ヘブライの桝目。147(3)

13:24 禁欲的な難行の勧めではない。最低のところで苦しむ人に奉仕するイエスに従うものの数は少なかったという事実から理解すべきことばである。147(4)

13:27 詩篇6:8147(5)

13:29 詩篇107:3マラキ1:11147(6)

13:32 ずるい人のこと。ヘロデは妥協的な現実主義者であった(ルカ23:12)。147(7)

13:33 イエスの敵はヘロデ王でもピラトでもなく、エルサレムを根拠とする律法主義であった。彼はそこで律法を守れぬもののために死ぬことによって、万人の救い、すなわち律法の成就をめざす。147(8)

13:34 エルサレムに集められることは救いの状態を示す(ゼパニヤ3:20)。147(9)

13:35 詩篇118:26。ここでは栄光のメシアの来臨をさす。147(10)

14:2 炎症などによって皮膚や筋肉に水分のたまる病気。致命的な場合もあった。147(11)

14:8 箴言25:6以下149(1)

14:24 最低のところで救いを呼びかけて死の道を歩むイエスに従うものがなかったことを示唆する。149(2)

14:27 禁欲的な遁世のすすめでなく、救いはいのちを含むすべて人間的な自我を神にゆだねるとこるにあることを示す。復活のイエスを囲む集団には彼の肉親もいた(使徒1:14)。149(3)

14:33 この二つのたとえは打算的ではなく、群衆(25節)への良識的な教えである。同時に、33節はその良識の実行のためイエスに従うか否かの態度のことである。149(4)

15:4 エレミヤ23:1以下エゼキエル34:11以下など旧約にも羊のたとえは多い。失われた罪びとの救いはイエスの教えを貫いている(マルコ2:17など)。その救いをよろこばれる天への希望によって救いの意味が深められる。149(5)

15:8 1ドラクマはほぼ一日の労銀。ローマのデナリに相当する(ルカ7:41)。151(1)

15:10 7節は未来形、ここは現在形であるが、ヘブライ的思想は時を超えるから意味に変わりはない。151(2)

15:17 自己の非の反省にはじまる回心ではなく、食がなくて行きづまって、父の所を思い出し、その愛に甘えるほか道がなかったのである。151(3)

15:25 兄はパリサイ人の気持をあらわす。151(4)

15:32 24節とともに復活思想の説明に重要な箇所。義の神から疎外された罪びとがこの父子の再会のように神と顔を合わせるのが復活である。その実現のために罪なくして死したイエスが復活したとの信仰によって、人間は復活して神とともに生きうる。この話に十字架のあがないがないという解釈は当らない。この兄のようなパリサイ人の独善に対して罪あるものの救いを説き、その罪を十字架上にあがなった救い主の面影が、話全体に映っている。151(5)

16:1 この章全体が、金好きのパリサイ人(14節)に反対して貧しいものの救いをいおうとする。151(6)

16:6 1パテは約20リットル。153(1)

16:7 1コルは約200リットル。153(2)

16:8 譬えは全体の精神を把握すべきものである。ここでは支配人の不正でなく、彼が貧しいものを助けた賢さが評価されている。153(3)

16:8 「光の子」はクムラン文書によるとその教団に属するものである。153(4)

16:9 富そのものに対して批判的なイエスがそれに「不正の」という形容詞をつけたとしても不自然でない。ただし富を与えて貧しいものを助けることに重点を置いて理解すべき教えである。153(5)

16:21 犬は軽蔑されていた(マタイ7:6)。153(6)

16:22 ルカ13:162819:9153(7)

16:31 福音が旧約の成就であることをいう(ルカ24:2744ヨハネ5:46など)。153(8)

17:2 パリサイ人のように小さいものを救いから遠ざけないように、との教えである。153(9)

17:3 パリサイ人のように自ら築き上げた信仰は、人を許さない。153(10)

17:5 真の信仰は自分の力でなく全能の神から力を受けるものである。153(11)

17:10 パリサイ人のような誇り(ルカ18:11)へのいましめである。155(1)

17:14 祭司に治癒を確認してもらい(レビ13:49)、ささげものをする(レビ14:11)ためであった。これは律法を守るためであったが、このようなことが度重なって成果があがると、イエスは祭司に恐れられた。155(2)

17:16 サマリア人(ルカ9:53)や異邦人(7:9)の方がイスラエル人よりも信仰的であるといって、イエスはパリサイ人らと反対の立場に立った。155(3)

17:21 今まで救われなかったものが救われるようになって、今や神の国は来はじめている(ルカ11:20)。「あなた方のうちに」はあなた方の手のとどくところに、の意。155(4)

17:25 神の国はイエスの贖罪の死がわかるものにわかる。155(5)

17:26 ノアのことは創世7:7以下155(6)

17:28 ロトのことは創世19:17以下。なお2ペテロ2:5以下にもノアとロトが並べられている。155(7)

17:37 いよいよの時が来て死体が鷲を引きよせるところの意(ヨブ39:30イザヤ18:6エレミヤ7:33など)。155(8)

18:6 譬えの解釈についてはルカ16:8の注を参照。ここでも不正をよしとするのではなく、この支配人でさえ弱いものへ耳を傾けたがゆえに、まして神は放って置かれるわけがないの意。155(9)

18:8 「間もなく」は、イエスによって救いのよろこびを与えられるものには神の国の完成が間近いことがわかる。時の物理的長さをこえる境地である(2ペテロ3:8)。157(1)

18:8 いよいよの時に弟子に見捨てられたイエスにふさわしいことばである。しかしその弟子たちに復活信仰が与えられたことが、信仰のないものにも安心を与える。157(2)

18:12 パリサイ人が自らを正しいとしてそれを感謝したことの誤りが指摘される。人間の判断は信仰でない。157(3)

18:14 罪に苦しむものへの救い主としてのなぐさめのことばである。157(4)

18:14 以上でルカの旅行記(9:51以下)が終わる。157(5)

18:15 「さわる」とは祝福のこと。157(6)

18:17 子は自力で生きえない。この点でもパリサイ人の自己依存とちがう。子への祝福が真に父なる神に信従しえたキリストによってなされたことに意味がある。157(7)

18:20 出エジプト20:12以下申命5:16以下のモーセの十戒の一部。157(8)

18:24 富は神と人とを距てる危険をはらむが、それを貧しいものに与えると神の国に近くなる。禁欲でなくて愛への勧めである。157(9)

18:27 聞く人々が以上を律法的、禁欲的に取ったのに対して、イエスは愛それ自体を神のわざに帰する。157(10)

18:31 イザヤ53:3以下157(11)

18:35 エリコについてはルカ10:30の注を参照。157(12)

18:38 恐しい暗黒に包まれた目しいはイエスに光を求めた。病を罪の結果とする考え(ヨハネ9:1以下)に対して、イエスはすべてを神の栄光のためとする。157(13)

19:1-10 これはルカ5:27以下のレビの話と似るが、このような出来事が繰り返されたためであろう。159(1)

19:5 取税人の家に泊る大らかさに救い主の面影がある(ルカ5:32)。159(2)

19:8 ザアカイが悔い改めたからイエスが訪れたのでなく、その逆である。恩恵として悔い改めの機会が与えられたのである。159(3)

19:10 エゼキエル34:16159(4)

19:11 人々はイエスの死なしで神の国が実現すると期待したのに対する譬えである。159(5)

19:12 紀元前4年にヘロデ大王が死した後、アルケラオス(マタイ2:22)がローマのアウグストゥスに王位を求めに出かけたが、のちにユダヤ人に拒否されたこと(ヨセフス『古代史』17:11:1)が背景にあり、イエスを拒否するユダヤ人への裁きが27節で示される。159(6)

19:13 1ミナは100ドラクマ。ルカ15:8の注を参照。159(7)

19:23 イエスから弟子たちに託されたものを殖やすようにとの教えである。159(8)

19:26 現在の持ちものへの執着はその喪失をきたす。159(9)

19:30 イエスが前からエルサレムをたびたび訪れてその事情に通じていたことを示す。159(10)

19:38 詩篇118:26参照。161(1)

19:41-44 ルカ13:31以下に似る。161(2)

19:44 世の終わりの時である(1ペテロ2:12)。信ずるものはそのとき神に顧みられて救われる。すべてのものが信じうる道がイエスによって開かれたことをルカは強調する。161(3)

19:46 イザヤ56:7エレミヤ7:11参照。161(4)

20:9 農夫たちがエルサレムの指導者を指すことは19節からも明らかである。161(5)

20:13 イエスのことを指す。161(6)

20:17 詩篇118:22参照。161(7)

20:28 申命25:5以下参照。163(1)

20:35 天使と等しくされると死ななくなるから、めとる必要がないことが示唆される。163(2)

20:36 復活にあずかる人々のこと。163(3)

20:37 イエスはサドカイ人も重んずるモーセ五書を引いて反論する(出エジプト3:6)。163(4)

20:43 詩篇110:1163(5)

21:2 マルコ12:42の注を参照。163(6)

21:5 ここからは旧約の引用が多くなる。裁きと救いが明確になるからである。163(7)

21:9 ダニエル2:28以下163(8)

21:10 イザヤ19:22歴代15:6163(9)

21:22 申命32:35ホセア9:7165(1)

21:24 ゼカリヤ12:3165(2)

21:25 詩篇65:7165(3)

21:26 イザヤ34:4165(4)

21:27 ダニエル7:13165(5)

21:28 ここに他の終末論とはちがって罪のゆるしの時に世の終わりを見る福音がある。165(6)

21:31 救いの中に神の国の近さを示すのがイエスの福音である。165(7)

21:32 最後の時の切迫が人の一生のうちといわれるのは、古代の時間観が短いこと、切迫に重点が置かれていることから理解すべきである。165(8)

21:34 イザヤ24:17以下165(9)

22:1 マタイ26:2の注を参照。165(10)

22:10 ここはルカ19:30と同じく、イエスが前にエルサレムを訪れていたこと、彼の交友が水瓶をもつような庶民的な人々であったことを示す。165(11)

22:20 旧約以来の神と人々との、また人と人々との人格関係がイエスの犠牲の血によって不離になるという新しい契約である。167(1)

22:29 死を決意したイエスは、自ら栄光を受けつつそれを弟子たちに分かつ希望をもつ。167(2)

22:32 イエスの最後が近づき、弟子と群衆の支持が増すが、イエスは弟子たちのそむきを予見し、しかも彼らが戻ってくることを期待する。それは復活信仰という形で実現する。167(3)

22:36 かつて弟子たちに何ももつなと教え(ルカ10:1以下など)、自らのためには剣を鞘に(ヨハネ18:11)といったイエスであるが、今は弟子たちには自らを守れという。愛の矛盾である。167(4)

22:37 イザヤ53:12167(5)

22:53 罪の力のこと。167(6)

22:69 ダニエル7:13詩篇110:1参照169(1)

22:71 はじめからイエスを有罪とするための裁判であったが、これらによって真の神の子キリストとはだれかが明らかになった。169(2)

23:3 ユダヤ人の王であることはローマに反抗しない限り罪ではない。政治的に無罪のイエスも、ユダヤの指導者から宗教的に有罪とされた。169(3)

23:7 ヘロデがエルサレムにいたのは祭りのためである。ルカはヘロデについての資料をもっていたと考えられる(ルカ8:3など)。169(4)

23:28 自らの苦しみをいわずに娘たちの嘆きを思う救い主の面影である。171(1)

23:30 ホセア10:8171(2)

23:31 平和な人がこのような目にあうならば暴力的な人はどうなろう、の意。171(3)

23:34 詩篇22:18。くじについてはルカ1:9の注を参照。171(4)

23:43 ここに天国の説明を求むべきではない。イエスは嘲りの中に自らを弁護してくれたものがうれしかった。171(5)

23:44 親しいものの死に際会したとき天も地も暗くなる。この心情をもってこの状景を把握すべきである。171(6)

23:46 詩篇31:5171(7)

23:54 安息日の準備をする金曜日。ユダヤ教の安息日は土曜日で、夕方にはじまる。171(8)

24:2 土地の状況が変わってイエスの死体が見えなかったことが復活信仰の誘因のひとつである。171(9)

24:4 天使のこと。171(10)

24:11 復活は信ずべきことである。173(1)

24:13 エルサレムの西北にあったと推測される村。173(2)

24:13 60スタデオは約12キロメートル。173(3)

24:44 まだ世の中に、の意。復活体は別の姿(マルコ16:12)であり、物理的生理的次元をこえた信仰の次元のものである。しかしそれは信徒に与えられる新生のよろこびによって物理的生理的な形をとってくる。173(4)

24:46 イザヤ53:2以下ホセア6:2173(5)

24:49 聖霊のこと。173(6)

24:51 使徒1:9以下。キリストが天に移されたとは、今や彼が神のところにあって、人間の救いのためとりなしをされているとの信仰をあらわす(エペソ2:6)。174(1)