1:1 アブラハムは信仰の模範(創世11:29~25:10)、ダビデは英君(1サムエル16章~1列王2:11)。両者は歴史的にも思想的にもイスラエルの重要人物である。007(1)

1:1 キリストであるナザレのイエスという意味。キリスト(ギリシア語)、すなわちメシア(ヘブライ語)は油そそがれたもの、救世主のことで、当時偽キリストが多かった。イエスの名については1:21の注参照。007(2)

1:1 新約中系図に批判的なところ(ヘブライ7:3)もあるが、それは祭司の形式的な系図尊重をいましめたものである。イエス自身もキリストがダビデの子であることに重きを置かない(マタイ22:41以下)。しかしここでは救世主の家柄を示す風格ある系図が示される。イエスこそキリストという主張の一環である。このような系図の書き出しは創世5:1以下のアダムの場合と似た形である。イエスの系図は別な形でルカ3:23以下にもある。007(3)

1:6 ダビデだけが王といわれるのはイエスが祭司の末でなく王の末であり(ヘブライ7:14)、僕(しもべ)の生涯を送った彼こそ真の王との意。007(4)

1:16 マタイの系図には四人の女性の名が挙がっており、そのうちには異教徒で純粋でない血統のものもある。女性の尊重と、キリストの人間性を示すといえよう。
 系図はヨセフに至っている。16節の書き方は、イエスは肉によればダビデの子孫であり、霊によれば神の子キリストである、という両面をもつこと(ローマ1:3以下)を示すものである。009(1)

1:17 14は7というよい数の倍、またヘブライ語ダビデの数値(Dが4、Vが6、Dが4で合計14)を示す。ここにある14ずつの区分に、ダビデに至る上昇、追放への下降、キリストヘの再上昇との三段階が見られる。第三が13なのはヘブライ語のいい伝えのときの脱落であろう。009(2)

1:18 「生誕」の原語 Genesis は1節の「系図」と同じで、ともに起源と由来を示し、創世記のギリシア名でもある。系図で先祖までさかのぼり、生誕で清らかなおとめのことが描かれて、キリストがダビデの子であり、また神の子であるといわれる。009(3)

1:19 この「ひそかに」や天使の介入はイエスが人間からではなく、神から生まれた神の子であるとの思想と、イエスはヨセフとマリヤの家に生まれたということとの両面を説明しようとした物語として理解すべきものである。009(4)

1:20 天使のこと。復活の音信も天使による(マタイ28:2など)。物理的生理的次元でなく信仰の次元における重要な体験の表現である(ルカ1:35)。009(5)

1:21 「主は救い」の意。ヘブライ語ヨシュアに相応する(使徒7:45のヨシュアもギリシア語原文ではイエスとなっている)。当時普通の人名(コロサイ4:11)。しかし救世主の名なので、生誕が回顧的に描写される一環として名の意味も説明されている。009(6)

1:22 旧約が成就することは新約中いたるところでいわれるが、とくにマタイに多い(2:1517234:148:1713:3521:427:9)。009(7)

1:23 イザヤ7:148:810参照。009(8)

2:1 エルサレムの南7キロの衛星都市。ダビデと関係が深い(1サムエル17:12)。しかし、ここで生まれたがゆえにというのではなく、救い主であり真のダビデの子と信ぜられたがゆえに、ダビデに由緒ある生地が回顧的に取りあげられたのである。009(9)

2:1 ヘロデ大王(在位、前37~前4)で、ローマ人と妥協して権力を得、領土をひろげたので大王といわれた。009(10)

2:1 古代の科学で重要視された占星術の学者、賢人、祭司。かれらが東の国の三人の王たちであったという伝説もある。009(11)

2:1 古来、宗教的政治的一大中心地。海抜800メートル近くの要害の地で水利良く、ダビデも都した。イエスはエルサレムの指導者に処刑されたのである。009(12)

2:4 大祭司と(律法)学者と長老がユダヤの主な指導者であった。009(13)

2:6 ミカ5:242サムエル5:2参照。009(14)

2:11 樹脂から作った香料(イザヤ60:6)。009(15)

2:11 植物性油薬。イエスの死体にも用いられた(ヨハネ19:39)。乳香とともに高価なもので、聖なる器その他に注ぐために用いられた(出エジプト30:23以下)。009(16)

2:15 ホセア11:1参照。011(1)

2:16 権力者にとって救い主の出現は自らの勢力をおびやかす危険があった。救い主が待望されていた当時、暴君ヘロデが幼児を虐殺したことは全くの虚構ではない。モーセが生まれたころ、エジプトで勢力を得たヘブライ人の男の子が殺されたこともある(出エジプト1:15以下)。011(2)

2:18 エルサレムの近くの町。011(3)

2:18 ヨセフとベニヤミンの母(創世29:6~35:19)。バビロニア追放の子らをなげく。011(4)

2:18 エレミヤ31:15参照。011(5)

2:22 アルケラオス(前23~後15ころ)のこと。やはり残酷な人。011(6)

2:23 ガリラヤの丘の南斜面にある静かな美しい町。エルサレムを避けてここに居を定めたヨセフには夫として、父としての見識がある。011(7)

2:23 士師13:5のナジル人と関係するという説もある。ヘブライ語からギリシア語への推移による多少の変化がある。ナザレからよいものは出ない(ヨハネ1:46)といわれた当時、マタイはイエスのナザレでの成育に聖書的説明を与えたのである。011(8)

3:1 沃地でなく荒野において律法が与えられた。苦難の生活のうちに信仰に導かれたことが旧約以来の特徴である。新約は沃地にも発展するが、先駆者ヨハネの舞台として荒野は深い意味をもつ。荒野についてはマタイ4:111:7など参照。011(9)

3:3 イザヤ40:3参照。011(10)

3:4 ヨハネは禁欲的生活をした。イエスはそうではない(マタイ11:18以下)。011(11)

3:5 ガリラヤ湖北方から死海までの長い流れで、大きなオアシスの役をなす。011(12)

3:5 禁欲的であったが孤高な隠者ではなく、クムラン教団のように閉鎖的な集まりを作りもせず、開放的にヨルダンのほとりで広く民衆に訴えた。この開放性はイエスと共通する。011(13)

3:6 オアシスでの深夜のゆあみなどいかがわしいことが行なわれた当時、ヨハネは水浴と心の清めを結びつけて倫理性を盛った。しかしイエスは形式をこえて霊による洗礼という福音を示す。011(14)

3:7 律法をもつものが救われると信じ、父祖たちのいい伝えを重んずる厳格な人々。011(15)

3:7 モーセ五書以外を認めないなど、保守的でありながら実際は妥協的な人々。011(16)

3:7 世の終わりの裁きに際しての神の怒りのこと(イザヤ30:30以下)。011(17)

3:13 イエスは当時の風習として割礼を受け(ルカ2:21)、当時の多くの人々のように洗礼を受けられた。011(18)

3:14 ヨハネとイエスとの間には美しい人間関係があった(マタイ11:11)。013(1)

3:15 「義」はマタイ特愛の語(マタイ5:610206:13321:32)。イスラエルの伝統による倫理で、それはイエスによって成就される。013(2)

3:16 神からの啓示を意味する(エゼキエル1:1ヨハネ1:51使徒7:56黙示19:11など)。013(3)

3:16 ノアの箱舟を導き(創世8:8以下)、愛をあらわす(雅歌2:145:2)など聖書で重んぜられた鳥であり、霊の形容に用いられたと考えられる。013(4)

3:17 詩篇2:7イザヤ42:1エレミヤ31:20など参照。013(5)

3:17 洗礼は体を水中に浸して行なわれた。したがっていったん死ぬことを意味した(マルコ10:38ローマ6:3)。十字架上に死した神の子への信仰の立場から回顧的にイエスの洗礼が描かれている。013(6)

4:1 イスラエルの民が荒野で体験した(申命8:2)ように、試みは苦しみと結びつく。それはイエスの生涯全体に及び、ゲツセマネで極致に達する(ルカ22:40以下)。それに打ち勝った彼は試みに敗れるものを救いうる。013(7)

4:2 聖書で重要な数で、モーセも(出エジプト34:28)エリヤも(1列王19:8)、神の前に四十日いたと伝えられる。013(8)

4:4 申命8:3参照。013(9)

4:6 詩篇91:11以下参照。013(10)

4:7 申命6:16参照。013(11)

4:10 申命6:13参照。013(12)

4:11 第一は魔術、第二は奇行、第三はこの世の勢力への誘惑で、いずれも堕落した宗教にありがちである。013(13)

4:12 ヘロデ王家の不義を批判したため(マタイ14:1以下)。013(14)

4:12 中心地エルサレムでも荒野でもなく、辺境の沃地である。013(15)

4:13 ガリラヤ湖の西北岸の町。マタイが「おのが町」という(マタイ9:1)ように、しばらくイエスの活動の拠点であったと考えられる。成育の地ナザレでは個人的によく知られていてつまずきもあった(マタイ13:54以下)。013(16)

4:13 この二つはそれそれガリラヤの西北と東北の地方。013(17)

4:16 イザヤ9:1以下参照。013(18)

4:24 ガリラヤのかなたの異邦を広くさす。013(19)

4:25 10の町の意。主としてガリラヤ湖とヨルダン川の東の地方で異邦人が多かった。015(1)

5:3 詩篇(1:12:1233:12など)にも出、神の性質に通ずる状態。1テモテ1:11のギリシア語原文では神の形容詞に用いられている。前の四つのさいわいはこの世での不幸のうちの幸福、あとの五つは神の子の姿である。なお、おのおのの部分を切り離さず、貧しさ、悲しみ、くだかれ等々の人々と天国、慰め、地を継ぐ等々の約束とを総合的に把握すべきである。015(2)

5:3 5節のくだかれた人々に通ずる(詩篇34:18)。旧約で(ゼパニヤ2:3など)貧しさと謙遜とは同じに用いられている。へり下るものの姿勢である。ルカ6:20には「霊に」がないけれども、精神的な貧しさと物質的な貧しさは相通ずる。両者をこえたかなたに真の富があることをイエスは教える。あきらめでなく、人の罪を負うイエスに従うところに真のさいわいがあるという新しい福音である。015(3)

5:5 「地を継ぐ」とは天国と矛盾せず、アブラハムが約束の地を継ぐ(創世15:7)ように、心くだかれて救世主を待望するものは地上に実現するその国を継ぐことを意味する(詩篇37:911)。このことはイエスによって実現する(ローマ8:16以下)。015(4)

5:8 神を見ることはゆるされず(出エジプト33:20など)、目に見える偶像は禁止されている(同20:4)。しかしイエスを見たものは神を見たものであり(ヨハネ14:9)、神の国では神を見うる(黙示22:4)。イエスに従うものにはその約束が与えられる。015(5)

5:9 不和のとき犠牲を払う人があってはじめて平和がつくられる。人の罪を負うイエスが神の子であるように、彼に従うものも神の子になる。015(6)

5:12 ここにもイエスの姿が見える。それは弟子たちのもつ姿でもある。弟子たちは預言者の後をつぐものである(マタイ10:4113:17など)。015(7)

5:17 「全うする」は単に実現でなく、内容の完成である。パウロが愛が律法の完成という(ローマ13:10)のと同じ趣旨である。新約が旧約を成就する。015(8)

5:18 一点はアルファベットのなかで最小のイオータ(英語のi)、一画はヘブライ文字の角の部分である。神の国が完成して律法が全うされ、万人に愛が可能になるまで、律法の小さな部分もすたれない、という意味である。015(9)

5:21 出エジプト20:13申命5:17参照。怒りは愛の欠如であり、それは他人を死に導くという点で殺人と変わりない。015(10)

5:22 大祭司が司会し、学者、長老ら指導者の加わる宗教と政治の最高機関。イエスに死刑をいい渡した(マタイ26:59以下)。015(11)

5:22 元来エルサレムの南の谷の名(ゲヘナ)で、死体を処理したところ。転じて地獄。017(1)

5:24 イエスは宗教的行事よりも愛を重んずる。017(2)

5:26 小単位の貨幣。017(3)

5:27 出エジプト20:14申命5:18参照。017(4)

5:31 申命24:1参照。017(5)

5:33 レビ19:12申命23:21参照。017(6)

5:35 イザヤ66:1詩篇48:2参照。017(7)

5:38 出エジプト21:24レビ24:20申命19:21参照。同害報復法 lex talionis は古来普通の法律や世論にもあらわれる。イエスの教えは根本的に違い、罪の人に報復せずにむしろ救おうとする神の愛にもとづく(ローマ5:81ヨハネ4:10)。017(8)

5:41 約1.5キロメートル。017(9)

5:43 レビ19:18参照。敵とは交戦国人同士に限らず、すべて敵意反感をもつもの。義の神に敵して律法を破る人間を愛する神の愛で敵を愛せよ、の意。017(10)

5:46 異教徒でかつ敵であるローマの政府のため同胞から税を取り立て、ユダヤ人から背教者・売国奴と軽蔑された人々。017(11)

5:48 申命18:13参照。017(12)

6:1 単なる因果応報ではなく、義の神のわざに参画させられるものに与えられる恩恵である。不幸を幸福と思うという価値観の転換を含む。017(13)

6:4 だれも見ていないところに限らず、人間的感覚では見えない神の次元で、の意味。それを見る目を与えられるところに救いがある。017(14)

6:5 元来俳優の意。面をかぶって心にない言行をするとそれがいつの間にか自分のものになる。形式的善行から自己崇拝への危険がある。偽善者の語はパリサイ人(マタイ3:7の注参照)についてたびたび用いられる(マタイ15:722:1823:13など)。019(1)

6:6 2列王4:33参照。019(2)

6:12 人をゆるすからという条件でない。ヘブライ的に時間と論理をこえる次元である。019(3)

6:15 イエスが神に忠実であり、罪あるもののあがないとして十字架上に死したがゆえに、われらに何もできずとも、彼の名によってこの祈りをしうる。019(4)

6:16 当時の風習。しかしイエスは禁欲的でなく、自由に飲食された(マタイ11:19)。隠れたところで神に近づくために食を節するところに真の断食の意味があることを示されたのである。019(5)

6:19 イザヤ51:8参照。019(6)

6:24 富のこと。富の否定でなく、神の次元で真の富が与えられることを示す。貧しさのなかに富を見る目が与えられることである。自ら貧しくなって人のために死した救い主に従うものは、愛という人を生かす富に生きることができ、創造主から神の子とともに万物を賜わって、富以上の富を得るのである(ローマ8:32)。019(7)

6:29 ダビデの次の王で神殿建築などに繁栄を示した(1列王10章)。019(8)

7:1 秩序維持の裁判が禁じられたのではなく、人間が自らを神の位置に置く倣慢への誓告である。021(1)

7:6 宮でささげられる食物(出エジプト29:33など)。聖なる福音をみだりに与えるなとの趣旨はマタイ10:16以下にも現われる。021(2)

7:7 イエスほど聞かれざる祈りを体験した人はない。苦難と死を避けうるようにとの祈りは聞かれず(マタイ26:39以下)、彼は自らの意に反して父なる神の意によって十字架につけられたのである。その彼の名による祈りはほかの祈りと違う(ヨハネ16:22以下)。021(3)

7:12 いわゆる黄金律 The Golden Rule である。021(4)

7:13 二つの道のことは箴言4:18以下12:28などにある(申命30:15以下詩篇1篇)。ここで狭い門といわれるのは、禁欲的な見地から困難に打ち勝つ少数者の救いがいわれるのではなくて、事実として真にイエスの救いを必要として彼に従うものが少なかったことからと理解すべきである。イエスに従うものが多くの人に見捨てられるとき、このことばの意味を体験しうる。021(5)

7:15 当時多くの預言者が活動していたので、その真偽を見分けるための教えである(マタイ24:1024使徒13:6黙示16:13など)。021(6)

7:16 果実のことは箴言11:30などにも、マタイ3:81012:3321:43にも出る。021(7)

7:21 口先の奉仕やことばの多い祈り、弟子の特権意識などへの警告である。021(8)

7:22 世の終わりの日。021(9)

7:22 エレミヤ14:1427:15参照。021(10)

7:23 詩篇6:8参照。021(11)

7:25 パレスチナの岩山や砂丘にしばしば見られるとおりである。021(12)

7:29 字句の末節や表面の解釈をするユダヤ教の学者のようでなく、救いの根本を教えるイエスには天来の権威があったのである。021(13)

8:4 いわゆるイエスの沈黙命令の一つで、彼は自らが崇められることを避けた。また、大勢の人が病の癒しやパンを求めて集まることは、この世の勢力の増大であって、イエスの意図するところではなかった。群衆はエルサレムの権力者から危険視されたという面もある。しかしイエスは、いよいよ死が迫ったときに自らを神の子として肯定する(マタイ26:64以下)。この肯定のゆえに彼は処刑されるのである。023(1)

8:4 レビ13:49参照。律法を重視し、イエスはその隣人愛を徹底させて律法のないものにも向ける。ここに形式的律法至上主義者との対決がはじまる。023(2)

8:5 百人の兵を部下にもつ軍人。当時パレスチナはローマ軍に占領されていた。023(3)

8:6 「わが子」は「わが僕(しもべ)」とも訳しうる。023(4)

8:11 詩篇107:3イザヤ49:12参照。023(5)

8:12 「み国の子ら」とはユダヤ人のことで、ルカ4:26以下でも異邦人の信仰がたたえられる。イエスに従うパウロも異邦人の救いをいう。民族的な意味でなく、律法から遠いものに神の愛が及び、そこに全人類の救いがはじまるという救済史的な意味である。「なげきと歯ぎしり」は他にもたびたび出る(マタイ13:42以下22:1324:5125:30など)。023(6)

8:17 イザヤ53:4参照。初代の信徒特愛の箇所である(使徒8:321ペテロ2:22以下など)。023(7)

8:20 「人間」「わたし」の両意があり、メシア的権威をもつ場合(ダニエル7:13使徒7:56など)もある。元来イエスが「わたし」といわれたことが、のちに権威を帯びたこともある。ここはその一例である。023(8)

8:27 人を罪から解放する救い主は全能の創造主から権威を受けており、したがって自然界をも制御するとの純真な信仰の表現である。023(9)

8:28 ガリラヤ湖の東南地方で、異教の勢力が強かった。023(10)

8:28 こんにちの精神的な疾患と思われる。023(11)

8:29 1列王17:182列王3:13参照。025(1)

8:32 ローマ人には豚は神聖な獣で、パレスチナには軍旗に豚を描いた軍隊が進駐していた。この話はイエスの占領軍への勝利を物語る。異教の地で悪霊を圧さえ、神聖と思われた獣を退治したイエスは、もしその地方で活動をつづければ大勝利を収めたであろうが、土地の人々はローマ軍との衝突を恐れたのであろう、彼に退去を求めた。イエスがこの場合沈黙命令を与えていないのも注目すべきことである。しかしイエスはガリラヤに帰り、主として同胞イスラエル人のために奉仕したところに真の彼らしさがある。025(2)

9:1 カペナウム(マタイ4:138:5)。025(3)

9:2 罪すなわち道徳的欠陥が不安をおこし、生理的疾患と死を生む。したがって罪をゆるす神の愛の伝達は、人に平安を与えて健康といのちへと導く。025(4)

9:8 「人々」と複数なのは、イエスが独走せず、弟子たちと協力して愛のわざをなした模様を反映する(マタイ18:18以下)。025(5)

9:10 取税人の家(ルカ5:29)。025(6)

9:13 ホセア6:6参照。025(7)

9:13 招いて悔い改めさせ(ルカ5:32)、義という救いの状態、すなわち罪の結果である死のない永遠のいのちに導くことをいう。025(8)

9:15 イエス来臨のよろこびと彼の死の悲しみとをあらわす。しかし結局万人が救われる新しい創造の時代となる(2コリント5:17)。025(9)

9:18 会堂(シナゴグ)の上役。025(10)

9:23 古代に笛吹きや泣き女が葬式に加わる風習があった。025(11)

9:25 罪から救われて新しいいのちを体験するものによってイエスのおどろくべき事績が思い起こされたのである。史実の信仰的解釈による記述である。また、書き方が簡潔で、しかも事件の結果に重点がおかれているから、奇跡物語や事件のくわしい経緯を引き出すことは無理である。イエスの愛がこの記事を書かせたという誘困を理解すべきである。027(1)

9:34 当時病気の原因は悪霊と考えられ、その悪霊は人格化されていた。027(2)

9:36 民数27:17など参照。027(3)

9:37 世の終わりの裁きのこと(マタイ3:12)。027(4)

10:1 12はイスラエルの部族を示す数(マタイ19:28)。イエスの多くの弟子(ルカ10:1など)の主な人々のこと。027(5)

10:4 過激な実力行使をした一派。027(6)

10:4 ユダの町カリオテ、またはケリオテ(アモス2:2)の人、あるいはあいくちの人(力ずくの人)、うそつき(アラム語で)の意。027(7)

10:5 ユダヤの北でガリラヤの南の地方の人。独立の聖所をもち(ヨハネ4:20)、ユダヤ人と仲が悪かった(同4:9)。027(8)

10:6 エレミヤ50:6参照。027(9)

10:14 古代人の決裂の表現(使徒13:51)。027(10)

10:15 罪のゆえに滅ぼされた死海地方の町(創世19章)。027(11)

10:21 ミカ7:6参照。027(12)

10:23 ダニエル7:13の預言のように、神の国が完成して救い主の来臨となる。世の終わりの切迫をいう。しかし、古代では時間と空間の感覚が、現代よりはるかに限られた範囲であることを考慮すべきである。世界の西の果ては大西洋岸であり、一世代は現代よりも長い年月で把握されていたのである。029(1)

10:25 悪霊の頭の名(マタイ12:24)。家の主人という意味もある。2列王1:2にも似た形がある。029(2)

10:29 低い単位の貨幣。029(3)

10:33 告白は恩恵であって重荷ではない。形式的な告白を義務化するのは福音的でない。イエスを否んだペテロ(マタイ26:70以下)に復活の信仰が与えられたことに深い意味がある。029(4)

10:35 ミカ7:6参照。029(5)

10:40 イエスは神意を受けた自覚をもつとともに、弟子たちと同じ面で協力する謙虚な姿勢をとった(マタイ18:5)。029(6)

10:42 小さいものへの愛は、聖書の中心思想のひとつ(申命7:7)。029(7)

11:5 イザヤ29:18以下61:1参照。029(8)

11:10 マラキ3:1参照。029(9)

11:12 天国をしたう熱心は力ずくとみられる面もある。当時のきまり文句らしい。029(10)

11:14 偉大な預言者のひとり(1列王19章)。再来が信じられた(マラキ4:5)。029(11)

11:21 ガリラヤ湖の北3キロの町。031(1)

11:21 ガリラヤ湖畔の町で最初の弟子の故郷(ヨハネ1:44)。031(2)

11:21 ともに地中海岸の異教の町(イザヤ23章)。031(3)

11:23 イザヤ14:13以下参照。031(4)

11:25 イザヤ29:14参照。パウロのいう十字架の愚か(1コリント1:18以下)。031(5)

11:28 エレミヤ6:16イザヤ28:12参照。031(6)

11:29 メシアの性格(ゼカリヤ9:9)。031(7)

11:30 軛(くびき)がとれたのでなく、イエスの軛なるがゆえに、ほかでは得られぬ安息がそのなかにある。031(8)

12:3 1サムエル21:1以下参照。031(9)

12:4 レビ24:5以下民数28:9以下参照。031(10)

12:5 祭司だけが安息日にパンを扱った。031(11)

12:6 神が宿りたもうものが真の宮という思想のあらわれである(ヨハネ2:211コリント3:16など)。031(12)

12:7 ホセア6:6参照。031(13)

12:21 イザヤ42:1以下参照。031(14)

12:24 マタイ10:25の注参照。033(1)

12:32 人間イエスにさからってもいいが、どんな罪でもゆるしたもう神の聖霊をけがすパリサイ人らはゆるされない。もしこれがゆるされれば、どんな罪でもゆるされるという福音が無意味になって、罪あるものが救われなくなる。033(2)

12:38 人を驚かせて権威を示す不思議な行為(マタイ16:124:3301コリント1:22)。荒野の試み(マタイ4:1以下)でイエスはそのような徴で人を引きつける誘惑に打ち勝っている。033(3)

12:40 ヨナ1:17参照。033(4)

12:40 イエスの死と復活についての預言。033(5)

12:41 両河地方の異教の大都会。ヨナ3:6以下参照。033(6)

12:42 シバの女王(1列王10:1以下)。033(7)

12:42 「ヨナ以上」「ソロモン以上」とは、イエスを神の子と信じた人々による伝承による。033(8)

12:45 イエスにいやされ救われた人は多かったが(マタイ12:15など)、忘れると前より悪い状態になる。033(9)

13:6 パレスチナの土地は乾燥していて、生えぬ種が多かった。同様に、乾燥した心の人も多く、イエスに従う人は少なかった。群衆に天国の奥義が隠されたとはこの点から理解しえよう。033(10)

13:15 イザヤ6:9以下参照。035(1)

13:32 詩篇104:12エゼキエル17:2331:6ダニエル4:12参照。035(2)

13:33 約40リットル。035(3)

13:35 詩篇78:2参照(詩篇は広義の預言)。035(4)

13:41 ゼパニヤ1:3参照。035(5)

13:43 ダニエル12:3参照。復活して救われるものの姿である。新約は罪びとにそれが恵まれることをいう。035(6)

13:50 この世では悪がはたらいている。しかしイエスの来臨によってそれが克服されつつあり、万人に福音が伝わってから本当の終わりになる(マタイ24:14)。037(1)

13:57 しかしイエスの死は身うちの人をも信仰に導いた(使徒1:13以下)。037(2)

14:1 ヘロデ・アンテパス(ヘロデ大王の子)。ガリラヤの領主。037(3)

14:5 群衆をおそれるのは政治家の心理である。037(4)

14:21 どんな方法で食物が調達されたかは記されない。大勢のなかには食料を携帯していたものもあろうが、イエスの力と群衆が満ち足りたことに重点が置かれる。石をパンにする奇跡(マタイ4:3)でなく、愛によって乏しきを感謝する奇跡である。砂漠でマナが与えられた故事も想起される(出エジプト16:13以下)。037(5)

14:24 1スタデオは約200メートル。037(6)

14:33 人を救う神の子は自然界をも制御し、彼を信ずるものにもその力は分かたれることを示す。039(1)

14:34 ガリラヤ湖西岸地方。人々がイエスとわかったところからして、彼の住んだカペナウムの近くであろう。ガリラヤ湖はゲネサレ湖(ルカ5:1)とも呼ばれるから相当重要なところであったろう。039(2)

15:2 律法の施行細則など。多く口碑伝承であったが、のちにミシュナとタルムードにまとめられた。039(3)

15:4 出エジプト20:1221:17申命5:16参照。039(4)

15:9 イザヤ29:13参照。039(5)

15:22 地中海岸の異教的地域を広くさす。039(6)

15:24 マタイ10:6参照。039(7)

15:26 子はイスラエル人、犬は異邦人。039(8)

15:38 これは五千人のパンの話の複製ではなく、イエスがたびたび群衆に愛を示されたことの証左である。039(9)

15:39 ガリラヤ湖西岸のマグダラのことか。041(1)

16:4 マタイ12:39以下参照。041(2)

16:6 パウロも同じ意味で用いる(1コリント5:6~8)。041(3)

16:13 ガリラヤの東北。ピリポはヘロデ大王の別の子。パネアスを皇帝(カイサル)のためにカイサリアと名づけ、海岸地方のカイサリアと区別して自らの名を加えた。041(4)

16:13 マタイ8:20の注参照。041(5)

16:18 ケパ(アラム語)とペテロ(ギリシア語)はともに岩の意。041(6)

16:18 黄泉は死者の滞在する所、門は権威を示す。キリストの集団には死の力が及ばないことを意味する。041(7)

16:23 悪魔。マタイ4:10と同じ表現。041(8)

16:27 詩篇62:12参照。041(9)

17:5 詩篇2:7エレミヤ31:20イザヤ42:1申命18:15参照。041(10)

17:8 弟子たちの信仰体験を示す。彼らは旧約のモーセでもエリヤでもなく、新約のイエスだけが彼らの救い主であることを学んだ。描写は出エジプト40:34以下に似る。043(1)

17:11 マラキ4:5以下参照。043(2)

17:24 原文2ドラクマ。1ドラクマは労働者一日の賃金。043(3)

17:27 4ドラクマ、したがって納金二人分。043(4)

18:10 当時各人に天使がついて守っているという思想があった(使徒12:15)。043(5)

18:16 申命19:15参照。045(1)

18:22 何度罪を犯しても無限にゆるせ、との意。045(2)

18:24 高額貨幣単位で、1タラントは数十万円に相当。したがって1万タラントは数十億円。045(3)

18:28 デナリ(ローマ)はドラクマ(ギリシア)に相当。マタイ17:24の注参照。045(4)

18:35 ゆるさない兄弟をゆるさない神によって、ゆるされる必要のあるものが守られている。045(5)

19:1 サマリアを避けてエルサレムへ上るには、いったんヨルダンの向こうに出てからエリコ経由するのが道すじである(マタイ20:29)。045(6)

19:4 創世1:27参照。045(7)

19:5 創世2:24参照。045(8)

19:7 申命24:1参照。045(9)

19:12 神の国では、めとらず、とつがず、天使のごとくになる(マタイ22:30)。045(10)

19:19 出エジプト20:12以下申命5:16以下レビ19:18参照。047(1)

19:26 創世18:14ヨブ42:2参照。047(2)

20:15 この話は賃金の分配法でなく、少ししか働けなかった罪びとを多く働いた義人と同様に救う神の愛を示す譬えである(ローマ9:14以下)。047(3)

20:16 マタイ19:30参照。047(4)

20:19 マタイ16:21以下17:22以下とともに受難予告は三つある。047(5)

20:20 マタイ4:2110:2参照。047(6)

20:22 イザヤ51:17マタイ26:39参照。047(7)

20:28 十字架の死がそれである(マタイ26:28)。アラム語で「多くの人」は「すべての人」とほとんど同義。049(1)

20:29 エリコは死海の西北約10キロの町。イエスはヨルダンの東から西へ移り、次第にエルサレムへ向かう。049(2)

21:1 エルサレムの東の山。ゼカリヤ14:4のメシア預言にもある。049(3)

21:1 ベタニアの近くの村。049(4)

21:5 イザヤ62:11ゼカリヤ9:9参照。049(5)

21:9 詩篇118:25以下参照。「ホサナ」は「救いあれ、栄えあれ」の意。049(6)

21:12 ツロその他外国の貨幣を両替して宮の献金にする人々があった。049(7)

21:12 ささげものとして、小羊に手の届かない人の場合に鳩が用いられた(レビ5:712:8など)。049(8)

21:13 イザヤ56:7エレミヤ7:11参照。049(9)

21:16 詩篇8:2マタイ11:25以下参照。049(10)

21:17 オリブ山の東斜面にあり、エルサレムの東約4キロの美しい村。イエスに愛されたラザロやマルタ、マリヤの町(ヨハネ11:1)。 049(11)

21:21 マタイ17:20参照。049(12)

21:22 この話は、何かおどろくべきことを体験した弟子が、神の子への信仰をもってまとめたものである。果実は善行を示す(マタイ3:8)から、世の終わりの裁きへの警告も含まれる。049(13)

21:23 ここに記されたようなイエスの活動を広くさす。049(14)

21:26 マタイ14:5参照。051(1)

21:33 イザヤ5:1以下参照。051(2)

21:42 詩篇118:22以下参照。051(3)

21:46 マタイ26:5参照。051(4)

22:14 イスラエル人が神に背いたので異邦人に救いが及ぶが、そこでも神の裁きの原則は変わらぬことを示す。パウロもローマ9~11章で異邦人からイスラエル人への線で全人類が救われるという。051(5)

22:16 ローマ皇帝のかいらいヘロデ王家の一味。051(6)

22:24 申命25:5以下参照。053(1)

22:30 イエスはこの世での結婚を軽んじたのではなく(マタイ19:3以下)、復活後、天使のような清純な生活がゆるされることをいう。053(2)

22:32 出エジプト3:6参照。イエスは、アブラハムらは死の世界に閉じ込められず、神によって生かされるとの意味でこれをいう。053(3)

22:35 ユダヤの律法に通じた人。053(4)

22:37 申命6:5参照。053(5)

22:39 レビ19:18参照。053(6)

22:44 詩篇110:1参照。053(7)

22:46 イエスはパリサイ人の期待するような血統や権力をもつダビデの子に何の価値もおかず、僕(しもべ)の姿で十字架についた。その彼こそ真のダビデの子と信ずるのが新約の思想である。マタイ1:1以下の注参照。053(8)

23:5 律法を記した皮などを身につける風習があった。053(9)

23:5 民数15:38以下などの規定による。053(10)

23:23 産物の10分の1をささげる規定があった(レビ27:30)。055(1)

23:24 レビ11:41以下により、不純物を除く。古代人は酒をこして飲んだ。「らくだ」は19:24のような誇張の表現。055(2)

23:34 この三つはユダヤ教の指導者である(エレミヤ18:18)。イエスはユダヤ教からの分離独立を図らなかったがゆえに、これらの名称を用いている(マタイ10:4113:52)。055(3)

23:35 創世4:2以下参照。055(4)

23:35 預言者ゼカリヤではない。2歴代24:20以下参照。055(5)

23:36 マタイ10:23の注参照。055(6)

23:37 申命32:11詩篇17:836:7参照。055(7)

23:38 エレミヤ22:5詩篇69:25参照。055(8)

23:39 詩篇118:26参照。055(9)

24:3 マタイ21:1の注参照。055(10)

24:6 ダニエル2:28参照。055(11)

24:7 イザヤ19:22歴代15:6参照。055(12)

24:10 ダニエル11:41(七十人訳聖書)参照。055(13)

24:14 世の終わりがすでに来たかのごとき盲信への警告である。イエスの終末観では全人類の救いに重点が置かれるのが特徴である(マタイ28:19)。057(1)

24:15 ダニエル9:2711:3112:11参照。紀元前167年にシリアの王アンティオコス・エピファネスがエルサレムの神殿を荒らしたという事件もある。057(2)

24:21 ダニエル12:1ヨエル2:2参照。057(3)

24:24 申命13:1以下参照。057(4)

24:29 イザヤ13:1034:4参照。057(5)

24:30 ゼカリヤ12:10以下ダニエル7:13以下参照。057(6)

24:31 イザヤ27:13申命30:4ゼカリヤ2:6参照。057(7)

24:36 マタイ24:42445025:13に繰り返される。使徒1:71テサロニケ5:1参照。人間の側の打算でなく、すべてを神意にゆだねる終末論である。世の終わりの時や様相の思弁に耽らず、救いの希望に燃えて日ごとの信仰の生活をつづけたところに、初期の信徒の健全性があった。057(8)

24:39 創世7:7参照。057(9)

25:11 マタイ7:22の「主よ、主よ」と同じ用語。059(1)

25:15 高額の貨幣単位(マタイ18:24の注参照)。059(2)

25:18 地下の貯蓄は当時めずらしくなかった(マタイ13:44)。059(3)

25:21 祝いの食事(マタイ8:1122:2以下25:10など)。059(4)

25:29 マタイ13:12参照。059(5)

25:30 マタイ8:1222:1324:51参照。059(6)

25:31 ゼカリヤ14:5参照。059(7)

25:33 右はよい側(マタイ22:44創世48:13以下)。059(8)

25:34 ここではイエスをさす(マタイ21:5)。059(9)

25:40 マタイ10:42参照。059(10)

25:46 ダニエル12:2参照。061(1)

26:2 エジプトからの解放を記念する祭り。061(2)

26:3 紀元後18~36年の大祭司。061(3)

26:5 祭りに集まる群衆をおそれたため。061(4)

26:6 マタイ21:17の注参照。061(5)

26:7 キリスト(メシア)とは油そそがれたものの意であり、王は油をそそがれた(2列王9:6マタイ1:1の注参照)。したがってこの話はイエスに対する尊敬をもって伝えられたものであるが、死体に油をぬる風習もあったから(ルカ23:56)、イエスにとっては自らの死の準備に思われた。061(6)

26:15 ゼカリヤ11:13参照。061(7)

26:17 民数28:16以下参照。061(8)

26:28 出エジプト24:8エレミヤ31:31ゼカリヤ9:11参照。なお、「多くの」についてはマタイ20:28の注参照。061(9)

26:30 過越には詩篇114~118篇がうたわれる風習があった。061(10)

26:31 ゼカリヤ13:7参照。061(11)

26:38 詩篇42:51143:5ヨナ4:8参照。063(1)

26:39 杯は苦難のしるし(イザヤ51:1722)。063(2)

26:42 マタイ6:10(主の祈り)参照。063(3)

26:51 ヨハネ18:10によればペテロのこと。063(4)

26:52 マタイ5:39以下参照。063(5)

26:53 一軍団(レギオン)は五千人。イエスがこの世の勢力を結集すればこの程度の群衆の盛上りは可能であった。063(6)

26:56 イザヤ53:12参照。063(7)

26:56 つまずいたのはペテロだけでなく、すべての弟子たちであった。イエスがエルサレムで勝利と栄光を得ると期待し、その意味で彼を神の子と信じたものたちにとって、敗北と恥辱の道を歩むイエスはつまずきであった。063(8)

26:64 ダニエル7:13詩篇110:1参照。063(9)

26:65 レビ24:16参照。063(10)

26:67 イザヤ50:5~7参照。063(11)

26:75 マタイ26:34参照。065(1)

27:2 ピラトは紀元後26~36年にユダヤ駐在のローマ総督であった。065(2)

27:10 ゼカリヤ11:13参照。エレミヤの名が出るのはエレミヤ18:2以下32:6以下の連想による。065(3)

27:16 当時の革命運動の一指導者(マルコ15:7)。065(4)

27:24 潔白を示すために水を用いるのはユダヤの風習で(申命21:6)、ピラトはユダヤ人の群衆に対する立場からこうしたのである。065(5)

27:25 血を流させた責任はわれらに、の意(レビ20:272サムエル1:16)。065(6)

27:26 十字架につける前に体を弱らせて死の苦痛を減らすために鞭打つ風習があった。065(7)

27:27 ローマ総督の公邸。総督はカイサリアに駐在していたが、祭リのときは治安維持のためエルサレムにいるのが、つねであった。065(8)

27:28 ローマ兵の着ていた外套。065(9)

27:29 イエスはユダヤ人からはキリストとして(マタイ26:68)、ローマ人からは王としてあざけられた。065(10)

27:32 北アフリカのクレナイカの人。そこは当時多くのユダヤ人が住んでいた(使徒2:1011:20)。065(11)

27:33 エルサレム郊外の丘。処刑が行なわれたので頭蓋骨と呼ばれた。065(12)

27:34 詩篇69:21参照。065(13)

27:35 ここから46節まで詩篇22篇からの引用が四度ある。ことに46節は重要。エリヤについてはマタイ11:14の注参照。065(14)

27:48 詩篇69:21参照。067(1)

27:53 エルサレムのこと。067(2)

27:56 ガリラヤ湖西岸の町。067(3)

27:57 1サムエル1:1のラマタイムと同じであろう。エルサレム西北方の町067(4)

28:2 天使は、神意を伝達し、信仰の次元へと導くもの。聖霊によるイエスの生誕も天使を通じて告げられている(マタイ1:20)。067(5)

28:17 復活は疑いうる性質のもの、すなわち信仰の次元のもので、物理的生理的現象と同一視すべきではない。しかし信ずるものには鮮かで確かな姿のイエスが示され、自らが新しく生きるという物理的生理的事実を体験しうる。068(1)

28:19 異邦人を含む全人類(マタイ24:1425:32)。068(2)

28:19 ヨハネ(14:1616:7以下)は助け主という。068(3)