1:1 キリスト(メシア、救い主)であるイエスの意。マタイ1:1の注参照。297(1)
1:1 キリストによってすべてから解放されて自由人となったものは、キリストの僕(しもべ)、奴隷としてそのわざに参画する。297(2)
1:1 「召し」も「選び」も人間の決心や自意識によらぬ神意のはたらきを示す。ガラテア1:15。297(3)
1:2 2サムエル7:12、イザヤ11:1以下など。パウロはキリストを中心とする出来事を旧約聖書の成就とする(1コリント15:3以下など)。297(4)
1:3 肉は人間の次元、霊は神の次元。297(5)
1:3 マタイ1:1以下。297(6)
1:4 「復活以来」とも訳せる。297(7)
1:4 イエスは多くの死人の中からの最初の復活者であるという信仰(エペソ1:20)。297(8)
1:5 「信仰」とは「まこと」の意。イエスが神へのまことをつくし、従順を全うして十字架上に血を流したがゆえに、すべての罪あるものが救われる(ローマ3:21以下)。このまことと従順がすべての人に及ぶとき神の国が完成する。この福音を伝えることは義務でなくて恩恵であるがゆえに、使徒性と恩恵が並べられている。297(9)
1:7 信徒はすべて神によって罪の世から召された聖徒である(ヨハネ17:14以下)。このことは今は未完成なのであるが、神の国の実現のとき完成する。297 (10)
1:8 ローマに福音が伝わっていたことは使徒2:10からも推定できる。297(11)
1:9 「わが心」とも訳せる。パウロが全身全霊をもって福音を伝えたことを指す。299(1)
1:10 ローマ15:23、使徒19:21。299(2)
1:11 いろいろな賜物がある(1コリント12:3以下)が、真の福音は具体的な実りをもたらす(ローマ15:27)。299(3)
1:14 全人類をギリシア人と異人、教養人と無教養人に分けたいい方。異人(バルバロイ)は元来不可解な言を話す人で、のちに未開人を指すようになった。ローマにはパウロの時代にギリシア語がさかんであったし、ローマ人も言語的、文化的にギリシア人に含まれている。299(4)
1:16 どんなに恥となっても福音信仰を告白します、の意。マルコ8:38参照。恥辱の極である十字架の死をとげたイエスを神の子と信ずることは、この世的には恥辱であり、愚かであるが、そこに神の力が現われる。1コリント1:18。299(5)
1:16 このようにユダヤ人と並べられた場合は異教徒を指す。「まずユダヤ人」とは救済史の発展の経緯を反映する。ローマ2:9以下。299(6)
1:17 普通「信仰」と訳されるギリシア語はピスティスで、「まこと」の意。人の意志や行為でなく、神から賜わるまことによって義とされて救われる、という新しい福音である。ローマ3:21以下。ピリピ3:9。「信仰から信仰へ」に似た形は2コリント2:16、3:18などにある。299(7)
1:17 ハバクク2:4。299(8)
1:18 来りつつある終末の時を神の怒りの日とする思想による(ダニエル8:19、ゼパニヤ1:18)。ローマ2:5以下にも出る。299(9)
1:18 原文では文頭にあり、同じ「示される」という動詞で前節にすぐつづく。299(10)
1:20 詩篇19:1以下、使徒14:15以下、17:24以下。299(11)
1:21 エレミヤ2:5、詩篇94:11などが反映する。299(12)
1:23 申命4:15以下、詩篇106:20、エレミヤ2:11。299(13)
1:25 偶像崇拝のこと。299(14)
1:27 レビ18:22。ギリシア的世界にはこのようなことがさかんであった。299(15)
1:31 このような罪の目録はパウロの手紙にたびたび出る。たとえばローマ13:13、1コリント5:10以下、ガラテア5:19以下など。299(16)
2:1 ユダヤ人は上述のような異教徒の諸悪への神の裁きを知っているがゆえに、自らへの裁きも知るべきである、との意。299(17)
2:3 3節と4節とは相補う。神の裁きをおそれるものは神のあわれみを信ずるよう導かれる。301(1)
2:4 ギリシア的な気持の入れかえでなく、ヘブライ的な転回を意味する。2コリント7:9。301(2)
2:6 旧約以来変わらぬ原則。詩篇62:12、ガラテア6:7以下など。これによって滅びるものがひとりもないように、との目的をもってもっとも罪深いものの救いがイエスによってそなえられている。新約は旧約を完成する。301(3)
2:8 ついには怒りでなくキリストによる救いに至ることをパウロはいう。ローマ5:9、1テサロニケ5:9。裁きは現実に行なわれているが、それからの救いはより強くはたらいて、ついには万人に及ぶというのが、キリスト中心の福音である。301(4)
2:9 ローマ1:16。301(5)
2:12 前節を受けて、ユダヤ人にまず啓示が行なわれたがゆえに特権が認められるのではないことを、律法の機能の観点からいう。301(6)
2:14 律法をもつユダヤ人の特権意識を批判しつつ、パウロは異教徒が律法のとおりに行なえばそれが律法になるという。これは汎神論とはちがう。律法の外に神の義が現われること(ローマ3:21以下)が底流として見られる。301(7)
2:15 ギリシア的な用語であるが、律法の文字でも律法の有無でもなく、倫理意識に重点を置く表現である。それが律法を成就する。史上もっとも良心的な人はナザレのイエスであった。301(8)
2:16 1コリント4:5。301(9)
2:17 エレミヤ9:24。301(10)
2:19 マタイ15:14、23:16。301(11)
2:22 申命7:25以下。301(12)
2:23 マタイ23:13以下のイエスによるパリサイ批判を想起させる。301(13)
2:24 イザヤ52:5、エゼキエル36:20。301(14)
2:25 14節以下と25節以下とは形式化した宗教への批判であり、同時に真の信仰の姿を示唆する。パウロがコリントでの形式的洗礼に警告するのも同じ趣旨である(1コリント10:1~11)。301(15)
2:26 この節と14節とは共通点が多い。301(16)
2:29 1ペテロ3:4。301(17)
2:29 2コリント3:6。301(18)
2:29 申命10:16、30:6、エレミヤ4:4、9:25。これは抽象化ではなく、信仰生活において具体化する。301(19)
3:2 律法を与えられたこと。申命4:8。301(20)
3:3 ギリシア語ピスティスで、人間の場合ふつう「信仰」と訳される。形容詞ピストスが「神をまこととする」の意で用いられる場合もしばしばある。1コリント1:9、10:13、1テサロニケ5:24。303(1)
3:4 詩篇116:11。この「真実」(ギリシア語アレーテース)は前節の「まこと」と同義。303(2)
3:4 詩篇51:4。303(3)
3:8 義に導く福音を誤解して、義とされるために罪にとどまる方がよいとする考えが当時あったと推定される。ローマ6:1、15。303(4)
3:18 詩篇14:1以下、53:1以下。303(5)
3:21 詩篇71:2、15以下。イザヤ51:8。303(6)
3:22 ギリシア語ピスティス(ローマ1:17の注を参照)。人が信じて仰ぐ信仰でなく、地上でイエスだけが神に対してまことでありえて人の罪を負って十字架につかれた。この彼のまことによって神は罪ある人に義を恵まれる。303(7)
3:24 無条件に、の意。ローマ5:15以下、エペソ3:7、4:7など。303(8)
3:25 十字架上の死をさす。303(9)
3:26 神は自ら義にいますだけでなく、すべての人を愛して義にしようとなさる。ここに義と愛が結びつく。303(10)
3:30 ただひとりの神が全人類を創造され、異教徒もその中に含まれる、という思想。ローマ10:12。303(11)
3:31 イエスによる律法の成就(マタイ5:17)のことである。303(12)
4:3 創世15:6。パウロは当時のユダヤ教に重んぜられていた信仰の模範アブラハムを例にして、信仰による義とは何かを説明しようとする。ガラテア3:6以下。305(1)
4:5 または「不敬虔なもの」(ローマ5:6)。不信のものが義とされるという信仰。信じて仰ぐという行為でなく、神秘的な情緒でもなく、宗教団体に登録済という身分でもない。父なる神から神の子のように永遠のいのちを賜わるという救いの約束を与えられた状態である。神は自ら信じえないものを愛されるという信仰表現のうちに福音がみられる(マルコ9:24)。305(2)
4:8 詩篇32:1以下、ガラテア4:15。パウロはダビデをアブラハムと並べるのでなく、ダビデを救い主であり王であるキリストの型として挙げている。305(3)
4:9 ローマ4:3の引用と同じ。305(4)
4:11 聖霊を与えられた徴としても用いられる。2コリント1:22、エペソ1:13、4:30など。また、徴として割礼は洗礼の旧約的な類型という見方も可能である。信仰による救いはすべての儀礼からの解放である。305(5)
4:13 創世18:18、22:17以下。これはキリスト信徒は神の国を継ぐものという思想へ発展する。ローマ8:17以下など。約束は聖書を通じての重要な救済史的思想の表現で、旧約での「乳と蜜の流れる地」への約束は、新約では完成された神の国への約束となる。305(6)
4:15 この思想はローマ7:7以下にくわしい。なお、15節の怒り、律法、違反と、16節の恩恵、信仰、約束とがそれぞれ並列する。305(7)
4:16 このあたり、律法によらず信仰による救いが律法をもたぬものに及んで、全人類が救われることが、アブラハムの約束に遡及して説明されている。305(8)
4:17 創世17:4以下。305(9)
4:17 創造神は復活の神であり、イエスによる復活は第二の創造である。2コリント5:17。305(10)
4:18 創世15:5。305(11)
4:18 創世17:4。信仰と希望との結びつきはヘブライ書11章にくわしい。305(12)
4:22 創世17:15以下。ローマ3:21以下の思想による。305(13)
4:24 信徒各人にかかわる問題であることをいう。305(14)
4:24 復活信仰は罪のゆるしの福音と不離の関係にある。305(15)
4:25 十字架上の死のこと。ローマ8:32、1コリント11:23以下、ガラテア2:20など。305(16)
5:1 義とされて義の神との間が平和であるところに救いがある。この平和が人と人との間の平和の根本である。独善的ないわゆる安心立命の境地ではない。305(17)
5:2 神の栄光の世界に迎えられる希望についてはローマ8:17以下参照。ここにエレミヤ9:23以下にいう神を知ることの誇りの成就がある。ローマ5:11参照。307(1)
5:5 詩篇22:5、25:2。人間が愛しえずとも神は愛する。1ヨハネ4:8。307(2)
5:6 「弱い」とは「罪びとである」との意。8節で罪びとへの神の愛が強調される。307(3)
5:8 「われらに代わって」ともとれる。ガラテア2:21、2コリント5:14。307(4)
5:9 ローマ1:18以下のような世の終わりの裁き。現在与えられる恵みが未来の救いを保証する。307(5)
5:10 キリストによって神と和解するものはほかの人との和解にも導かれる。ここにキリストの愛が神の国を建設するとの原理がひそむ。和解については2コリント5:18以下参照。307(6)
5:11 この誇りが、ガラテア6:14の十字架の誇り、2コリント12:9の弱さの誇りと共通する。307(7)
5:12 創世2:17、3:19。307(8)
5:14 神から律法を与えられたモーセの意。307(9)
5:14 アダムとキリストについては1コリント15:22以下と同45以下参照。307(10)
5:15 アダムとキリストとを並べて説明しつつ、キリストの優位を強調しようとする。罪に義が、死に生が勝つ。307(11)
5:20 罪から解放されるものが恩恵の大きさを讃えることばである。307(12)
6:1 ローマ3:8に似た形がある。307(13)
6:2 パウロの徹底した恩恵論は律法を守る意欲を減退させるという誤解もあり、また、グノーシスなど異端のなかには罪を犯しつづけたほうが恩恵が増してよいという放縦主義者もあった。パウロはそれらに対して罪に死ぬ、すなわち罪と絶縁し、罪から解放される方向を示そうとする。307(14)
6:4 当時の神秘宗教で、洗礼(水中に浸ること)によって神と一体化する呪術的思想があった。パウロの強調するのは、そのような情緒的恍惚境に浸るのでなく、イエス・キリストの死と復活とに参与しつつ彼に従って生活することである。パウロは入信の形式としての洗礼も重視しなかった。1コリント1:17。307(15)
6:6 生来罪を犯す死すべき人。「新しい人」とはキリストによって義とされて復活を恵まれる人。肉の体と霊の体との対比もこれと共通する。309(1)
6:8 律法至上主義者であったパリサイ人パウロがダマスコ途上、復活のイエスに接した回心の記事(使徒9章、ガラテア1:12以下)は、いったん死んだパウロがアナニヤに洗礼されてから復活の福音を説くようになったことを示している。洗礼と苦難の死との関係はマルコ10:38以下にも見られる。309(2)
6:15 1節と似た問いである。309(3)
6:16 16節以下。奴隷として死した神の子によって罪の奴隷である人間が義とされると、新しく生まれて義の奴隷となり、他の人々を義へと導く救い主とともに永遠のいのちをうける。309(4)
7:1 ローマに律法を知るユダヤ人の信徒がいたことは確かである。使徒28:16以下。309(5)
7:2 律法からの解放をたとえで説明する。309(6)
7:4 ローマ6:1以下のキリストとともに死して復活する思想と結びつく。309(7)
7:5 ローマ6:6の「古い人」と同じ。309(8)
7:6 文字による律法は旧約、霊による生活は新約といえる。2コリント3:6。309(9)
7:7 ここから一人称単数がしばしば出るので、パウロは自己の回心の体験を語るという解釈が有力であるが、回心後の諸体験も含めて考える必要がある。パリサイ人からイエスの僕(しもべ)への回心はその後の活動への誘因であり、活動は回心の意味をますます明らかにしたのである。309(10)
7:7 出エジプト20:17。309(11)
7:10 レビ18:5。311(1)
7:12 律法も掟も元来神から与えられた聖なるものであるが、罪がそれを壊したという。根底に創世記3章の原罪の思想と、罪の自覚とがある。311(2)
7:13 救われたパウロは回顧的に過去のなかに神の目的を見る。このような目的論は9~11章の救済史の描写にも現われる。311(3)
7:14 「肉」は人間の次元、「霊」は神の次元のもの。311(4)
7:22 2コリント4:16。次の節の「精神」とともに「良心」(ローマ2:15)と共通する。311(5)
7:23 罪の法則とか罪の力とかは責任逃れではなく、自らの内に制御できない力がはたらく、みじめな現実の描写である。311(6)
8:1 8章はローマ書全体の形からも内容からも中心的である。311(7)
8:2 ローマ6:18、7:1以下。なおヨハネ8:32、36参照。311(8)
8:3 ピリピ2:7。311(9)
8:4 3節と4節に、罪のない神の子が罪びとと同じ肉の形でつかわされて死し、それによってわれらも義とされて、律法の目的が達せられる、という信仰の根本が圧縮されている。311(10)
8:5 肉と霊、罪と義、死と生、アダムとキリストなど、パウロは二つずつ並べて、それぞれあとのほうがイエスによって実現されて神の国での完成に向かうことをいう。311(11)
8:6 ローマ5:1。311(12)
8:9 1コリント3:16など。これは神秘的神人合一でなく、他者への愛へと発展する。311(13)
8:11 ここにも神(復活させた方)、キリスト、霊の、三位一体的信仰の基盤がある。根本にイエスの死と復活がある。311(14)
8:15 アラム語で「父」の意。311(15)
8:17 イエスは神の子であることを独占せず、すべてのものを神の子にして神の国を継がせる救い主である。その救いは、彼の苦難と栄光がすべてのものに分かち与えられるという形をとる。313(1)
8:18 2コリント4:17、マタイ11:30。313(2)
8:20 人間の罪のゆえに被造物も呪われる。創世3:17以下など。313(3)
8:21 すべてが神意であるから、の意。神の目的論という救いの歴史の見方が聖書の至るところに現われる。「栄光」も「自由」も救いの状態を示す。2コリント3:17以下。313(4)
8:23 霊の保証(2コリント1:22など)ともとれるが、キリストは初穂であり(1コリント15:20以下)、長子(ローマ8:29)であるから、それとの相関性において解釈すべきである。313(5)
8:23 イエスによって罪のあがなわれる新しい時代が来たが、その完成は未来であるから今なおそれを待っているのが信徒である(ガラテア5:5)。未完成のゆえにすべてをゆだねうるところに慰めがある。313(6)
8:24 2コリント4:18。313(7)
8:26 2コリント12:4。霊は不完全な人間のことばでいえぬ神的次元へのとりなしの力をもつ。313(8)
8:27 詩篇139:1。313(9)
8:29 キリストのごとくされるところに救いの極致がある。ピリピ3:21など。313(10)
8:29 救いは人間のわざによらず、すべて神の側であらかじめ定められているという予定説である。エペソ1:11など。313(11)
8:31 詩篇118:6。313(12)
8:36 詩篇44:22。313(13)
8:39 ここに天使があるのは、迷信的天使崇拝のさかんであった当時の背景を思うべきである。ここに列挙された諸権威よりもキリストの愛が強いという信仰は、多神教と戦ってただひとりの神を信ずるという聖書全体の線の現われでもある。1コリント15:24、エペソ6:12。313(14)
9:1 新しい内容となり、切々となやみを訴える点、11章のむすびの讃美のところとともに感動的な語調である。9~11章でイスラエルの救いのことを論ずるので旧約の引用が多い。313(15)
9:3 出エジプト32:32。イエスは呪いの十字架にかかって呪われる人々を救う。ガラテア3:13。313(16)
9:4 出エジプト4:22、申命14:1。315(1)
9:4 2コリント3:7以下。315(2)
9:4 創世9:9以下など。315(3)
9:4 創世12:2など。315(4)
9:5 アブラハム、イサク、ヤコブ(出エジプト3:6など)、およびダビデ(ルカ1:32)。315(5)
9:5 神の子の神性についてしばしば引用される箇所。ピリピ2:6以下、ヨハネ20:28など参照。唯一神が父と子と聖霊という形で現われるという三位一体説が聖書の神の姿を示す。315(6)
9:7 創世21:12。315(7)
9:8 ガラテア4:21以下。315(8)
9:9 創世18:10以下。315(9)
9:12 ローマ3:31以下の救いのことを旧約に遡って論ずる。315(10)
9:12 創世25:21以下、27:36以下。315(11)
9:13 マラキ1:2以下。315(12)
9:14 申命32:4。315(13)
9:15 出エジプト33:19。315(14)
9:16 12節と同じ思想である。315(15)
9:17 出エジプト9:16。315(16)
9:18 出エジプト4:21、7:3。315(17)
9:20 イザヤ書29:16、45:9。315(18)
9:21 神の救いは人間の意表に出る。マタイ20:15。父に温かく迎えられた放蕩息子に兄は抗議する。ルカ15:28。315(19)
9:22 滅びる人間のこと。315(20)
9:23 救われる人間のこと。315(21)
9:26 ホセア1:9以下、2:23。315(22)
9:28 イザヤ10:22以下。315(23)
9:29 イザヤ1:9。315(24)
9:32 イザヤ8:14、1ペテロ2:8。317(1)
9:33 イザヤ28:16。異邦人優先はとりもなおさず罪びと優先でもある。マルコ2:17。317(2)
10:1 ローマ9:3の心情。317(3)
10:2 パリサイ時代のパウロも「熱心」であったが、真の意味での神の義を事実として把握していなかった。ピリピ3:6以下。317(4)
10:4 「究極」「成就」とも訳せる。317(5)
10:5 レビ18:5。317(6)
10:7 申命30:12以下。これをキリストにあてはめ、人間はキリストをどうこうできないが、神は彼をわれらに近く(18節)つかわされた、という。317(7)
10:8 申命30:14。317(8)
10:10 信仰告白という行為の義務化でなく、不信のものが義とされるよろこびの告白が救いの状況を示すことをいう。317(9)
10:11 イザヤ28:16。317(10)
10:13 ヨエル2:32。317(11)
10:15 イザヤ52:7。ヘブライ思想では人体の部分としての足の美しさでなく、よいおとずれを伝える器としての美しさである。そしてエルサレムの山の美しさがその背景をなす。317(12)
10:16 イザヤ53:1。「聞く」と「従う」とは相通ずる。317(13)
10:17 パウロはキリストのことばと消息を伝え聞いており、それゆえにキリスト信徒を迫害していたが、回心以来それを信ずることができた。それを人々に伝えている。1コリント15:3。317(14)
10:18 詩篇19:4。317(15)
10:19 申命32:21。317(16)
10:20 イザヤ65:1。317(17)
10:21 イザヤ65:2。317(18)
11:1 パウロはイスラエル人であることを誇りとする。2コリント11:22、ピリピ3:5。317(19)
11:2 詩篇94:14、1サムエル12:22、エレミヤ31:37。317(20)
11:3 1列王19:10以下。319(1)
11:4 1列王19:18。319(2)
11:5 ローマ4:4以下、ガラテア2:16など。319(3)
11:8 申命29:4、イザヤ29:10。319(4)
11:10 詩篇69:22以下。319(5)
11:11 申命32:21。319(6)
11:12 ローマ9:23、10:12の「豊かさ」に通ずる。イスラエルの完成と25節の異教徒の完成とが一体となって、全人類の救いが実現するという希望が与えられる。その根本はもっとも罪深いものが十字架の恩恵によって救われることである。319(7)
11:13 異教の町ローマの信徒たちのなかに異教徒もいたことは確かである。319(8)
11:15 信徒の復活、すなわち神の国の完成のこと。319(9)
11:16 民数15:20以下。319(10)
11:17 異教徒のこと。319(11)
11:21 ローマ1:18以下で異教徒とイスラエル人双方の罪をいうのが想起されよう。319(12)
11:25 このあたり、奥義(あるいは秘義)など世の終わりについての黙示的な語調がある。そして、イエスが全世界に福音が宣べ伝えられて世の終わりが来る(マタイ24:14)と教えたのと同じことがいわれる。319(13)
11:27 イザヤ59:20以下、27:9、エレミヤ31:33以下。319(14)
11:33 ピリピ4:19、エペソ3:8、黙示5:12。イエスの福音は貧困と死の讃美でなく、それらを克服して富といのちに至らしめる。319(15)
11:34 イザヤ40:13。321(1)
11:35 ヨブ41:11。321(2)
12:1 ここから15章の終わりまで信徒の実際訓が記される。救いのための義務でなく、無条件に救われるもののよろこびの生活の指針である。321(3)
12:1 ローマ6:11以下。321(4)
12:1 ピリピ4:18。321(5)
12:1 1ペテロ2:2。321(6)
12:1 形式化した宗教の行事でなく、神の恩恵を受ける讃美と感謝の生活全体を礼拝の心でつづけること。礼拝の精神化、抽象化でなく、礼拝の本来の趣旨を分に応じて生活に反映させることである。321(7)
12:2 nous. ギリシア的な用語である。「理念」とも訳せる。ここではキリストの心に従って新しい物差しで判断すること。321(8)
12:3 6節とともに分に応じての倫理がいわれる。2コリント8:11。それは信仰的なよろこびに満ちて人に与える境地である。2コリント9:7。321(9)
12:5 1コリント12:12以下。321(10)
12:7 信徒のための仕事。ローマ16:1など。321(11)
12:8 信仰を勧める人。1コリント14:3。321(12)
12:11 小さいものへの奉仕が主に仕えることである。マタイ25:40。321(13)
12:13 信徒は神の聖徒である。ローマ1:7など。321(14)
12:14 このあたり「キリストのごとくあれ」という語調である(ピリピ2:5)。マタイ5:44、ルカ6:28。321(15)
12:16 箴言3:7。321(16)
12:17 箴言20:22。321(17)
12:17 2コリント8:21。321(18)
12:19 申命32:35。321(19)
12:20 箴言25:21以下。マタイ5:43以下。321(20)
12:20 敵が悔いること。元来エジプトの風習。321(21)
13:1 異教徒の国には問題が多い。ローマの皇帝ネロが信徒を迫害したのはいちじるしい例である。しかし、イエスが熱心党とちがって暴力で権力に抵抗しなかったように、パウロも平和的であり、貧しいものに必要な社会秩序を神の恩恵としてうけるよう勧めている。12:14には社会のことも含まれている。1ペテロ2:13以下。321(22)
13:6 マタイ22:21、17:24以下。321(23)
13:8 人は神とちがって完全には愛しえないがゆえに、つねに愛の負債をもつ、という謙虚な考えである。323(1)
13:8 マタイ5:17。323(2)
13:9 出エジプト20:13以下、申命5:17以下、レビ19:18、マタイ22:39。323(3)
13:10 ルカ10:36以下のように、苦しみのときにはたらく隣人愛において律法は頂点に達する。323(4)
13:11 イエスによる愛の実現にこの世の終わりと神の国の接近を見る福音的終末論である。323(5)
13:13 ルカ21:34、1コリント15:32。323(6)
13:14 ガラテア3:27、エペソ4:24。衣服が人を形づくるという思想による。323(7)
14:3 肉を避ける菜食の人は弱いもの、何でも食べられる人は強いもの。1コリント8:10以下。万人の一致と平和は聖書思想の基本線である。323(8)
14:5 ガラテア4:10、コロサイ2:16。323(9)
14:8 ガラテア2:20、2コリント5:15。323(10)
14:9 十字架上の死とその後の復活のこと。323(11)
14:10 ローマ2:6以下、2コリント5:10。323(12)
14:11 イザヤ45:23。323(13)
14:14 マタイ15:11、使徒10:15、1コリント6:12、10:25以下。323(14)
14:16 ローマ8:28。323(15)
14:17 1コリント15:24。323(16)
14:17 ガラテア5:22。323(17)
14:22 ここの「信仰」には信仰的良心という意味がある。325(1)
15:1 ローマ14:1。325(2)
15:3 ゲツセマネの園の祈りからもわかるように、キリストは自らをよろこばせず、神意に忠実に従った。マタイ26:39、ピリピ2:8。325(3)
15:3 詩篇69:19。325(4)
15:4 ヨハネ5:39、2テモテ3:16。325(5)
15:7 キリストのごとくという福音的倫理。325(6)
15:8 割礼あるイスラエル人のためであることをいうため、ここから旧約の引用が多くなる。325(7)
15:9 2サムエル22:50。詩篇18:49。325(8)
15:10 申命32:43。325(9)
15:11 詩篇117:1。325(10)
15:12 イザヤ11:10。325(11)
15:15 儀礼的ともとれるほどの口調であるが、無条件の救いのことを率直に述べつつも指図がましくしたのではないことをいい、かつすべてはローマの人々の記憶しているイエスの福音であると謙遜していっている。325(12)
15:16 ローマ11:11以下。325(13)
15:16 パウロは祭司でなかったが、神と人との間をととのえるという祭司の役をした。祭司でなかったキリストを祭司以上の大祭司とするヘブライ書の思想にも通ずる。325(14)
15:17 1コリント1:31、2コリント1:12、エレミヤ9:24。325(15)
15:19 2コリント12:12。真の福音が伝わると平安が臨んで予期しない治癒その他の成果が生ずる。325(16)
15:19 アドリア海東岸、こんにちのアルバニアのあたり。325(17)
15:20 固有名詞でなく、イスラエル人のようにメシア(救世主)のことを知っていない異教徒を相手に福音を説こうとした。325(18)
15:21 イザヤ52:15。325(19)
15:22 ローマ1:13。325(20)
15:24 パウロのイスパニア(スペイン)行きは第一クレメンス書によって立証される。327(1)
15:26 福音によって推進された広範な相互扶助に初期キリスト教の社会的基盤がある。善きイスラエル人としてパウロはエルサレムの貧しい人々に献金をした。使徒24:17、ガラテア2:10、1コリント16:1以下。2コリント8~9章。327(2)
15:31 エルサレムを中心とするユダヤにはパウロに反対する人々が多かった。使徒21:13など。327(3)
16:1 使徒18:18。327(4)
16:3 使徒18:1以下、1コリント16:19。327(5)
16:3 当時の風習によって手紙が集まりで朗読されたが、ローマの全信徒が一堂に会するのではないから、「よろしく」と伝言する。327(6)
16:13 ヨハネ19:27。327(7)
16:18 欲望のこと。ピリピ3:19。327(8)
16:19 マタイ10:16、1コリント14:20。327(9)
16:20 創世3:15。327(10)
16:22 パウロは手紙を口述したので、その筆記者のことがここでいわれる。327(11)
16:25 あるいは「沈黙された」。2コリント3:15の「被われた旧約」のことが想起される。328(1)
16:26 ローマ1:2。328(2)