1:1 創世1:1の「はじめに」に相当し、天地創造以前以上の、神の次元に、の意。175(1)
1:1 ロゴスのこと。広く古代世界に、ことにギリシアで、ことばがしばしば神格化されたのに対して、ナザレのイエスこそ神からつかわされた真のことば--その来臨によって神と人とを、また人と人とを対話させて結ぶもの--とヨハネはいう。175(2)
1:3 詩篇33:6など。175(3)
1:5 罪の人間の住む暗黒の世。175(4)
1:6 洗礼者ヨハネのこと。175(5)
1:11 世も人も元来神に属するものであるが、人の罪のゆえに神の光を受けなかった。175(6)
1:12 名が実を示すがゆえに、彼を信ずる、と同じ。175(7)
1:12 イエスを指す「子」 hyios とはちがう teknon が用いられる。(パウロは人間たちにも前者を用いる。)イエスだけが真の神の子であるが、彼のいさおしによって人間も神と父子の関係に入りうることが新約を通じての福音の根本である。175(8)
1:13 神から生まれる清く新しい生命のことである(ヨハネ3:3以下)。ラテン写本その他で「彼は……」と単数にするものがあるが、正文批判学上、ギリシア写本の複数の方がよい。単数は処女降誕の教義に直接影響された読み方であるが、ヨハネは救われて新しく生きるものが神のひとり子に似ることを示唆する。175(9)
1:14 神のことばが肉体すなわちイエスという人格になってこの世に生活した、というロゴス化肉の思想。「宿る」は「幕屋を張る」が原意。幕屋は神の栄光が宿るところと考えられた(出エジプト40:34以下)。177(1)
1:15 イエスの地上での出現は時間的にはヨハネのあとであるが、イエスは創造に先行するロゴスとしてヨハネ以前から存在したとの意味(ヨハネ1:30)。177(2)
1:17 恵みも真も旧約にあるが(出エジプト34:6)、ここでヨハネは旧約のモーセと新約のイエスとを対比する。イエスは律法を行ないえないものに救いの手を差しのべるからである。177(3)
1:18 聖書は偶像を禁じ(出エジプト20:4)、義の神は罪の人の目に見えぬことを教える(同33:20)。神の子がこのへだたりを除いて罪の人に義の神に接しうる道を開いたのである(ヨハネ12:45、14:9)。177(4)
1:19 ルカ10:31の注参照。177(5)
1:20 マタイ1:1の注参照。177(6)
1:21 大預言者(1列王19章)で、メシアの先駆として再来すると信じられた(マラキ4:5)。177(7)
1:21 モーセのような預書者が待望されていた(申命18:15、使徒3:22)。預言者待望とメシア待望とはある点共通する(ヨハネ6:14、7:40)。177(8)
1:23 イザヤ40:3。177(9)
1:24 マタイ3:7の注参照。177(10)
1:25 洗礼による民衆指導に大勢の人が従ってメシア的あるいは預言者的性格がみられたがゆえに、ヨハネがそれを否定するのがわからなかったのである。177(11)
1:28 エルサレムの近くのベタニア(ヨハネ11:18)ではない。異本にはベタバラ(士師7:24)とある。いずれにせよヨルダンの東。177(12)
1:29 小羊は従順と純潔をあらわす(イザヤ53:7、エレミヤ11:19、1ペテロ1:19)。また、小羊はイスラエルをあがなうものである(出エジプト12章、1コリント5:7)。177(13)
1:30 ヨハネ1:15の注参照。177(14)
1:39 原文、第十時。177(15)
1:42 マタイ16:17のヨナの子と同じ。177(16)
1:44 マタイ11:21の注参照。179(1)
1:45 申命18:15、18、イザヤ53:3以下などが考えられるが、むしろ「モーセと預言者」は旧約全体をさすと解してよい(ルカ16:29、ローマ3:21など)。179(2)
1:51 この情景は創世28:12のヤコブの梯子を想起させる。「人の子」についてはマタイ8:20の注参照。ヨハネ福音書では、権威をもった、の意味でたびたび用いられる(3:13以下、5:27、6:27、53、62、8:28、9:35、12:23、34、13:31)。179(3)
2:1 ガリラヤに当時のカナと考えられる町が三つほどあるが、この説話の解釈にはどれでも差しつかえない。179(4)
2:4 大勢の中の家族同土のことばとして、とくに冷たいいい方ではないが、2列王3:13のようにイエスが独自の立場にあることを示す。179(5)
2:4 神の力による行為にはすべて神に定められた時があると考えられていた(ヨハネ7:30、17:1など)。179(6)
2:6 1メトレタは約40リッ卜ル。179(7)
2:11 不思議なわざの意味でしばしば用いられるが(マタイ12:38など)、ヨハネではここのようにイエスの権威を示す出来事として特別の意味をもつ場合が多い(6:26など)。179(8)
2:11 この説話全体に神の国の完成の時のキリストの婚宴のよろこびの気持があふれている(ヨハネ3:29、黙示19:7以下など)。179(9)
2:12 ガリラヤ湖西北岸の町。湖畔は海面下の低地であるから「下って」という。この町にイエスはしばらく住まわれた模様で、マタイ(9:1)は「おのが(イエスの)町」という。179(10)
2:16 宮清めはマタイ(21:12以下)など共観福音書では終わりに近い部分に出る。ヨハネがはじめの部分に描くのは、福音書全体でイエスを栄化された神の子として描く趣旨による。イエスがその両親のごとく(ルカ2:41)、よきイスラエル人としてたびたび祭りなどのときエルサレムへ行かれたことは事実である。179(11)
2:17 詩篇69:9。179(12)
2:18 ヨハネ福音書でユダヤ人はイエスに敵対する同胞の意味でしばしば用いられる(5:16、7:35、9:18など)。179(13)
2:20 ヨセフス(古代史15:380)によると神殿建築は紀元前19年ごろからであるから、イエスの活動を紀元後27年ごろからとすると大体46年となる。「三日」というのはイエスの復活のことを指している。179(14)
2:21 神住みたもうかぎり体は宮である(1コリント6:19)。179(15)
2:22 十字架上の死に至るイエスの歩みは弟子たちにも理解できなかったが、復活信仰を与えられて真のメシアをイエスにおいて見ることができ、それを預言する(旧約)聖書と彼らの聞いたイエスのことばとの双方を信ずることができたのである(ヨハネ12:16、13:7、14:26など)。181(1)
2:25 ヨハネ16:30など。181(2)
3:2 立場上、人目をしのんで夜来訪したのである。のちにニコデモはイエスを弁護し(ヨハネ7:50以下)、アリマタヤのヨセフとともにイエスの埋葬に関与する(同19:38以下)。181(3)
3:3 原語の副詞は「新たに」と「上(天)から」との両意がある。ヨハネがこの両意を含ませていることは文脈上明らかである。181(4)
3:8 ギリシア語プネウマには風、いぶき、霊などの意味がある(ヘブライ語ルーアハも同様である。創世1:2、2:7、6:3など)。181(5)
3:10 パリサイ人は霊の存在を信ずる(使徒23:8)のに、このことがわからないか、の意。181(6)
3:14 民数21:4以下。181(7)
3:14 天に挙げられて栄光を受けることと、十字架上に挙げられて恥辱のうちに死すこととの両意が含まれている。新約聖書、とくにヨハネ福音書では、栄光の神の子と恥辱のイエス、未来に完成される神の国と未完成のこの世、の両面が入りまじっている。181(8)
3:18 信ずる状態と信じない状態との区別を知るものには、前者が救いで後者が裁きであることが理解されよう。同時に、最後にはすべての人が信ずるという希望が与えられる(マタイ24:14)。181(9)
3:19 ヨハネ1:5、12:35。181(10)
3:23 ヨルダン川中流西岸。救い(サレム)に近い泉(アイノン)と寓喩的にもとれる。181(11)
3:29 花むこはメシア、花よめは信徒の集団(エクレシア)である(2コリント11:2、黙示19:7以下)。181(12)
3:30 イエスを高く評価して自らの限界を知った偉大な先駆者ヨハネを尊敬してイエスは女から生まれた最大のもの(マタイ11:11)という。183(1)
3:35 父の子への愛はヨハネの基調である(5:20、10:17)。これがイエスの死によって人間に及ぼされる。183(2)
4:5 サマリアの中心で旧約のシケム、今日のナプルス。ゲリジム山の下の美しい町。183(3)
4:5 創世33:18以下。183(4)
4:6 原語、第六時ごろ。183(5)
4:9 隣国同士の不和はゲリジムとエルサレムの両聖所を対立させるほどであった。183(6)
4:10 原語では「湧き出る清水」と「いのちの水」との両意(エレミヤ2:13)。183(7)
4:14 水は清めと飲料の双方から生命力を与える。水は救いに結びつき(エレミヤ2:13)、水と霊とが並べられる(イザヤ44:3、ヨハネ7:38以下)。183(8)
4:18 サマリアの五柱の神々(2列王17:29以下)をほのめかすとも取れる。183(9)
4:19 ヨハネ1:21の注参照。183(10)
4:20 ゲリジム山。サマリア人はネヘミヤの時代にそこに神殿を建てた。神殿は紀元前2世紀にユダヤ人によって破壊されたが、礼拝はこんにちまでつづいている。183(11)
4:22 サマリア人が前8世紀にアッシリアの勢力におされて異教的になったことも想起される(2列王17:24以下)。183(12)
4:23 神は人が手で造った家に住みたまわず(使徒7:48)、完成された神の国には神殿がない(黙示21:22)。183(13)
4:36 詩篇126:5以下。185(1)
4:37 思想としては申命28:30、ミカ6:15などたびたび出る。185(2)
4:38 苦しむイエスの収穫を弟子たちが集めることがほのめかされている。185(3)
4:42 この話はよいサマリア人の話(ルカ10:30以下)とともに、当時ユダヤ人に軽蔑されていたサマリア人にも及ぶ救いを示す。185(4)
4:44 マタイ13:57など。185(5)
4:45 当時祭りのためエルサレムに行く人は多かった(ルカ2:41以下)。185(6)
4:46 ガリラヤの領主ヘロデ・アンテパス。185(7)
4:48 旧約(出エジプト7:3など)以来しばしば用いられる語法(使徒2:19、ローマ15:19、2コリント12:12など)。おどろくべきことを見てはじめて信ずるよりも、信ずるとおどろくべき神のわざとして見る目を与えられる、というのが新約的である(マタイ16:1以下)。185(8)
4:52 原文、第七時。185(9)
4:54 これは百卒長の話(マタイ8:5以下など)に似ている。ヘロデはローマと協力していたから百卒長が「王の役人」として伝えられたとも考えられる。185(10)
5:2 エルサレムの北の城門。185(11)
5:2 ヘブライ語で「あわれみの家」の意。この近くに治癒神セラピスの神殿もあった。185(12)
5:4 天使や霊が水の近くにいていやしに協力するという思想が古代にあった。185(13)
5:10 当時のユダヤ教で安息日に荷物を運ぶのは禁止されていた。187(1)
5:14 イエスのいやしは病の根源である罪からの解放である。187(2)
5:17 神の七日目の安息(創世2:2以下、出エジプト20:10など)は創造主としてであって、裁き主としてはつねに働きたもう、との思想がユダヤにあったのと似るが、ヨハネでは形式化した安息日への批判が重要である。自分自身神によって母の胎内で創造されたことを信ずるもの(詩篇139:13)は、神の創造が続いており、キリストによる新しい創造(2コリント5:17)を讃美する。187(3)
5:18 イエスは自らを神と数学的に等しくしたのではなく、神を父として忠実に従ったので、自らを神と一体とするものとして非難される(ヨハネ10:31以下)。187(4)
5:30 マタイ26:39。187(5)
5:31 申命19:15。187(6)
5:43 悪魔(ヨハネ8:41以下)、偽預言者あるいは偽キリスト(同10:8)など。187(7)
5:47 39節以下の「聖書」と同じく、広く聖書を指す(2テモテ3:16)。預言者(申命18:15)もそこに含まれる。イエスは(旧約)聖書の隣人愛を徹底させていかなる罪びとをも救いに導く。189(1)
6:1 ガリラヤ湖(ゲネサレ湖)の別名。テベリアは同西岸の町で、皇帝テベリオ(ルカ3:1)にちなむ。189(2)
6:7 マタイ18:28の注参照。189(3)
6:15 ここにこの世の利益で人を集めて勢力を築く宗教家とは根本的に違うイエスの行き方がある(マタイ4:8以下)。しかしイエスは禁欲的遁世家ではなく、人々にかつがれる危険が去るとまた町々村々へ帰って愛の活動をつづける。189(4)
6:19 1スタデオは、約200メートル。189(5)
6:26 真の徴(罪のゆるしによる永遠のいのち)とほかの宗教にみられる徴(満腹など)との区別がなされている。ヨハネ2:11の注参照。189(6)
6:31 出エジプト16:4以下、詩篇78:24以下。189(7)
6:39 最低のものの救いは万人の救いに直結する。191(1)
6:45 イザヤ54:13、エレミヤ31:34。191(2)
6:46 ヨハネ1:18、14:8以下など。191(3)
6:58 ここに真の聖餐の意味が示されている。復活のイエス・キリストを囲む夕食のひとときにも、働くものとその家族や友人が彼の血と体に参与して十字架の苦しみと復活の希望を共にする。新しいいこいと愛に生きる信徒の共同体の基盤がここにある。新しい契約とはこのことである(1コリント11:24以下)。191(4)
7:2 モーセ時代の荒野の旅を記念して仮庵(かりいお)に一週間を過ごし、秋の取り入れを感謝する重要な祭り(申命16:13以下、ネヘミヤ8:14)。193(1)
7:5 イエスの行き方と、彼の身うちを含めての「この世」のそれとは根本的に違う。193(2)
7:15 ナザレの両親のもとで(ルカ2:40)、また会堂で(同4:16)、豊富な知識を修得されたことは確かである。しかしエルサレムの神殿を拠点とする指導者にとってはイエスは外様(とざま)であった。193(3)
7:22 創世17:12。193(4)
7:27 メシアは人の目に隠れた存在、という思想があった。また天からメシアがおりて来るとの神話を信ずる人もあった。193(5)
7:35 古代世界に広く活躍していたいわゆる散在(ディアスポラ)のユダヤ人(1ペテロ1:1など)をいう。193(6)
7:38 ゼカリヤ13:1、エゼキエル47:1以下。なお、ヨハネ4:14も参照のこと。195(1)
7:39 真にこのことが実現したのはイエスが復活して栄光を受けられてから(ヨハネ20:22)の意。195(2)
7:40 ヨハネ1:21の注参照。195(3)
7:42 ミカ5:2、2サムエル7:12。195(4)
7:49 いわゆる地の民(アム・ハアレツ)で、エルサレムの指導者から疎外されていた。195(5)
7:51 申命19:15。195(6)
7:52 エルサレムからみればガリラヤは辺境で、異教的であった(イザヤ9:1)。なお、ヨハネ1:46参照。195(7)
7:53-8:11 この部分(7:53~8:11)はよい写本に欠けているが、イエスの精神を伝える貴重な資料であることはほかの部分とかわりない。195(8)
8:5 レビ20:10以下。195(9)
8:6 自らを裁き人にしないためか(ルカ12:14)、あるいはパリサイ人らの罪を指摘するため。エレミヤ17:13、ヨブ13:26。195(10)
8:17 申命17:6。195(11)
8:20 宮への献金などを入れるところ。197(1)
8:24 「われあり」の語法は28節にもあり、出エジプト3:14を思わせる。197(2)
8:28 天上と十字架上の両意をもつ。ヨハネ3:14の注参照。197(3)
8:28 ヨハネ8:24の注参照。197(4)
8:48 サマリア人の蔑視についてはヨハネ4:9。197(5)
8:56 創世17:17以下。199(1)
8:58 神の子として創造以前から、の意。ヨハネ1:15の注参照。ヨハネはイエスを栄光の神の子として描き、彼の発言もその色彩を添えて紹介している。199(2)
9:2 先祖の罪の結果が子孫に及ぶことは旧約にもあり(出エジプト20:5)、イエスも罪と病との関係を重視する(マルコ2:5以下、ヨハネ5:14など)。イエスは人の心身の弱さのゆえにそれを救おうとして恥辱の死を目ざした。その死を栄光というヨハネ的な意味(17:1以下)で、ここの「神のわざ」を解すべきである。199(3)
9:6 唾液の効用は古来知られていた(マルコ7:33)。ここは当時の治療のひとつの形を示す。199(4)
9:7 神からつかわされたキリスト(ヨハネ3:17)に当てていわれている。199(5)
9:7 水による清めは2列王5:10以下にもある。イエスは体の清めと心の清めを万人に可能にした。199(6)
9:17 ヨハネ1:21の注参照。199(7)
9:22 破門に相当する制裁である(ヨハネ12:42、16:2)。199(8)
9:24 ヨシュア7:19。199(9)
9:35 ヨハネ1:51の注参照。201(1)
9:39 イザヤ35:5、6:9以下。201(2)
9:41 自らを正しいとするパリサイ人と罪のゆるしを乞う取税人の譬え(ルカ18:9以下)と共通する。201(3)
10:1 門は天国へ入る所その他として聖書にたびたび出る(創世28:17、詩篇78:23、マタイ7:13以下など)。201(4)
10:7 詩篇118:20。201(5)
10:8 パリサイ人との問答で明らかなように、キリストによってのみ救いが可能であることを示す。201(6)
10:11 羊飼いのことも聖書に多い。神(詩篇23:1、95:7、イザヤ40:11など)、王(詩篇78:70以下)、指導者(エレミヤ23:1以下、エゼキエル34:1以下)が羊飼いにたとえられている。イエスは群衆を牧者のない羊のようにあわれんだ(マルコ6:34など)。201(7)
10:12 エレミヤ23:1以下。201(8)
10:16 エレミヤ23:3、エゼキエル34:16、37:21以下、ミカ2:12。旧約ではユダとイスラエルとの再一致をいうが、イエスはユダヤ人と異邦人との一致を(ヨハネ11:52など)、さらに万人の救いを目ざす(同17:20以下)。201(9)
10:18 ヨハネではイエスが自発的に死への道を歩むことが強調される。201(10)
10:22 異教の王アンティオコス・エピファネスに勝ったユダ・マカベアによる宮の清めを記念して冬に行なわれた祭り。203(1)
10:23 宮の東側の回廊。ソロモンの神殿に由来すると伝えられる。初期キリスト教徒はしばしばそこに集まった(使徒3:11、5:12)。203(2)
10:33 イエスは神をけがさなかったが、神を父として従った彼が非難された(ヨハネ5:18)ように、神の権威の下に活動した彼が神をけがしたと見なされ、レビ24:16にあるように石打ちされようとしたのである。203(3)
10:34 詩篇82:6。広義の律法は詩篇ばかりでなく旧約全体を含む。ヨハネ12:34、15:25もその例である。203(4)
10:40 「前に」とあるのはヨハネ1:28の所を指し、後の3:23の所と区別するためであろう。203(5)
11:1 マタイ21:17の注参照。203(6)
11:2 ヨハネ12:1以下。203(7)
11:6 ヨルダンの向こう岸(ヨハネ10:40)。203(8)
11:16 十二弟子のひとり。ヨハネ福音書でたびたび言及される(14:5、20:24以下、21:2)。203(9)
11:18 1スタデオは、約200メートル。したがって15スタデオは約3キロ。205(1)
11:24 当時のユダヤ教の復活の思想をあらわす(ダニエル12:1以下)。205(2)
11:25 イエスを信ずるものにとっては、復活は現世において新しいいのちとして始まる。205(3)
11:48 占領軍は有力なものと協力するのがつねである。205(4)
11:49 マタイ26:3参照。205(5)
11:50 2サムエル20:21、ヨナ1:12。205(6)
11:52 ヨハネ10:16など。カヤパの発言と彼が知らずして預言したイエスの死の意味とがいっしょに描かれている。205(7)
11:54 エルサレムの東北約20キロの町。205(8)
11:55 過越には清めが行なわれた(民数9:10以下、2歴代30:17)。205(9)
12:3 マタイ26:7の注参照。207(1)
12:3 約327.5グラム(ヨハネ19:39)。207(2)
12:8 申命15:11。207(3)
12:13 勝利の君を迎えるとき用いられた(黙示7:9)。207(4)
12:13 詩篇118:25以下。207(5)
12:15 ゼカリヤ9:9。207(6)
12:16 ヨハネ2:22。207(7)
12:21 儀礼上の取り次ぎの依頼である。とくにピリポに頼んだのはギリシア語を用いたためと考えられる。207(8)
12:24 死といのちを説明するため麦や種のたとえがたびたびいわれる。マタイ13:29以下、1コリント15:35以下など。イエスの死と復活が多くの人を永遠のいのちに導くことが中心的である。207(9)
12:27 恥辱の十字架に真の栄光が現われるが、死の時が迫ったことは人間イエスにとって苦難の極みである。この箇所はゲツセマネの祈りを想起させる。マタイ26:39など。207(10)
12:28 イエスの来臨も神の栄光を現わすが、さらに恥辱の十字架に神の栄光が現われることを指す。207(11)
12:31 悪魔のこと。ヨハネ14:30、16:11。207(12)
12:32 ヨハネ3:14の注参照。207(13)
12:34 詩篇110:4、イザヤ9:7、ミカ4:7。ここで「律法」というのは広く旧約全体のこと。ヨハネ10:34の注参照。ここに神の子が死ぬことはありえないという当時の思想が示されている。209(1)
12:38 イザヤ53:1。209(2)
12:40 イザヤ6:10。209(3)
12:42 ヨハネ9:22。209(4)
12:45 ヨハネ1:18、14:9。209(5)
12:47 ヨハネ3:17以下、8:15以下。209(6)
13:5 他人の足洗いはもっとも恥の多い行為のひとつである。209(7)
13:7 弟子の無理解と、それにもかかわらずイエスの死後彼らに復活信仰が与えられることが、ここの意味である。209(8)
13:17 マタイ5:3以下のさいわいと相通ずる。この世で僕(しもべ)であることのうちに示される真のさいわいである。僕になってついに死した神の子に従うことは父なる神に迎えられるさいわいと結びつく。209(9)
13:18 詩篇41:9。211(1)
13:23 イエスの愛弟子(ヨハネ18:15、19:26、20:2以下、21:7、20など)としてヨハネ福音書に描かれる人物。彼を福音書の記者とする説が穏当である。211(2)
13:27 ヨハネ福音書ではイエスの死が彼の自発的な行動として描かれている。211(3)
13:33 ヨハネ7:33以下、8:21。211(4)
13:34 ヨハネ15:12、ローマ13:9、1ヨハネ3:23。イエスによって導かれる愛は旧約の完成である。なおマタイ22:34以下、1ヨハネ2:7以下参照。211(5)
13:36 イエスの死後ペテロに復活信仰が与えられてこのような殉教の死が実現した。211(6)
14:2 したがって神の子によってだれでも救われる。211(7)
14:2 ヨハネ12:26。211(8)
14:3 救い主としてすべての人を救うために。マタイ19:28。211(9)
14:6 詩篇119:1、34、37。211(10)
14:9 ヨハネ1:18の注参照。211(11)
14:12 ここにイエスの謙虚さと、彼の福音が死後、聖霊のはたらきによって全世界に伝わる確信との両方があらわれている。213(1)
14:16 原語はパラクレトス、聖霊の人格化された表現(慰め、励ますもの、の意)である。ヨハネ14:26、15:26、16:7以下、1ヨハネ2:1。16節は根本においてマタイ28:20のイエスのことばと同じである。聖霊は旧約以来父なる神によって準備され、十字架に死した神の子によって万人に与えられる救いのわざとなってゆく具体性をもつ。213(2)
14:19 ヨハネ14:2以下。213(3)
14:20 十字架上の死の後の復活と復活後の再臨とがヨハネ福音書では合わせて表現される場合が多い。「その日」は旧約以来、世の終わりを示すが(イザヤ2:17、4:1以下など)、ヨハネ福音書ではこのような時を超越した次元がある。213(4)
14:27 この世の平和でなく、十字架の血による罪のゆるしの平和である(ヨハネ16:33、ローマ5:1)。213(5)
15:1 エレミヤ2:21。213(6)
15:6 エゼキエル15:4。213(7)
15:8 神の子が使命を達成するとは彼に従うものが愛の果実を結ぶことにある、というふうに救いの具体性に重きが置かれている。これは17章に至って極致に達する。人間が救われてはじめて神の子が栄光を受け、それによって父なる神が栄光を受けたもう、という救い中心の栄光論へと発展する。213(8)
15:20 ヨハネ13:16。215(1)
15:25 詩篇35:19、69:4。215(2)
15:26 助け主は父と子と聖霊の三位をもつ唯一神のはたらきを示すがゆえに、三位一体を指すひとつの表現といいうる。215(3)
16:2 ヨハネ9:22の注参照。215(4)
16:2 迫害者も宗教的信念に燃える。パリサイ人パウロもそのひとりであった(使徒9:1以下)。215(5)
16:7 ヨハネ14:16の注参照。215(6)
16:11 ヨハネ12:31の注参照。215(7)
16:12 事実問題として、弟子たちがイエスを本当に信じえたのは十字架以後である。マタイ16:22以下などの弟子の無理解の模様とルカ24:25以下などの復活の記事とを比べるとそれが明らかになる。215(8)
16:16 イエスの死としばらくして後の復活のことをいう。215(9)
16:21 イザヤ26:17。217(1)
16:22 十字架の悲しみの後に復活のよろこびが与えられる。同様に、今の悲しみの後に永遠のいのちのよろこびが与えられる。217(2)
16:23 万物が完成して皆が救われる日に、神のみ心がすべて明らかにされること。217(3)
16:24 キリストが救いをもたらすゆえに、彼の名によって求めるものに救いが与えられる。217(4)
16:27 今は、罪なくしてひとり十字架上に死して復活した神の名によって祈る。しかし神の国が完成された暁には、父の神がすべてのものを神の子として直接愛される、という希望が示されている。217(5)
16:32 ゼカリヤ13:7。217(6)
16:33 ヨハネ14:27の注参照。217(7)
17:5 ヨハネ1:1の注参照。217(8)
17:9 神に敵するこの世。ヨハネ1:10。217(9)
17:12 ヨハネ13:18、詩篇41:9。217(10)
17:15 イエスは禁欲あるいは諦めによって世を避けることでなく、世にあって悪を避ける信仰生活をすすめる(マタイ6:13など)。219(1)
17:22 分裂は悪魔のわざ、一致は神のわざ。前者は憎しみ、後者は愛である。また、ここに父と子と聖霊(信徒へのはたらき)の三位一体説への方向が示されている。散らされたものが集められるのは、旧約以来待ちのぞまれた救いの姿でもある(イザヤ11:12、56:8)。新約ではそれが異教徒までも発展される(ヨハネ10:16など)。219(2)
18:1 エルサレムの山とオリブ山との間の谷。219(3)
18:1 ゲツセマネの園のこと。マタイ26:36。219(4)
18:3 レギオン(五千人)の10分の1の部隊。219(5)
18:8 弟子たちをかばって自分だけ捕えられようとする救い主の面影がある。マタイ26:56などには、弟子たちが逃げた、とあるが、イエスひとり死への道を歩んだという事実は同じである。219(6)
18:9 ヨハネ17:12。219(7)
18:14 ヨハネ11:49以下。219(8)
18:15 ヨハネ13:23の注参照。219(9)
18:28 異教徒ローマ人にけがされないため。221(1)
18:32 ヨハネ12:32以下など。十字架に挙げられ、また天に挙げられること。221(2)
18:36 マタイ26:53の注参照。221(3)
18:40 熱心党(ルカ6:15)のように武装革命家にも用いられる。マルコ15:7。221(4)
19:1 釈放するつもりで懲らしめて鞭打った。ルカ23:16。221(5)
19:7 レビ24:16。221(6)
19:8 異教徒も神的なものへのおそれをもつ。イエスの発言には権威があった(ヨハネ18:37)。また、ローマ皇帝が「神の子」といわれたことも総督をおそれさせた原因と考えられる。初期キリスト教徒が皇帝でなくてナザレのイエスこそ神の子であると告白したことは、ローマ帝国での迫害の原因のひとつである。221(7)
19:11 イスカリオテのユダのこと。221(8)
19:19 マタイ2:23の注参照。223(1)
19:20 ヘブライ語は旧約聖書が書かれた国語でイスラエル人のもの、ラテン語はローマ帝国の用語、ギリシア語は当時の文化世界の共通語で、この三つがここに書かれているのは実情に即している。223(2)
19:24 詩篇22:18。223(3)
19:26 ヨハネ18:15の注参照。223(4)
19:28 詩篇22:15、69:21。223(5)
19:29 清めに用いられる植物。詩篇51:7。223(6)
19:31 準備日は金曜日、ユダヤ教の安息日は土曜日。223(7)
19:31 過越のために。223(8)
19:31 安息日に死体のまま置かぬように(申命21:23)、死を早めるために脛を折ろうとした。223(9)
19:36 出エジプト12:46、詩篇34:20。223(10)
19:37 ゼカリヤ12:10。223(11)
19:39 ヨハネ3:1。223(12)
19:39 マタイ2:11。223(13)
19:39 樹液の香科。223(14)
19:39 約33キログラム。ヨハネ12:3の注参照。223(15)
20:9 ホセア6:1以下、ヨナ2:1以下、詩篇16:10など。225(1)
20:9 墓にイエスの体が見えなかったことですぐには復活信仰にならなかった。復活信仰はあくまで信仰の次元で体得される性質のものである。225(2)
20:12 天使がふたり現われるのはめずらしくなく、この場合死体の守り天使であった。225(3)
20:15 復活のイエスが園丁と同じような姿で把握されたことは、他の場合もそうであるが、冠を戴く王者としてでなく、庶民として僕(しもべ)の生涯を送り、十字架上に死したイエスの再現を示す。復活のイエスのことばの冷静なのと相まって、苦難と十字架のイエスの復活を信じるのが聖書的復活信仰である。225(4)
20:26 キリスト教徒が日曜日を安息日とするようになるはじめ。1コリント16:2、黙示1:10など。225(5)
20:29 ここに真の信仰がある。ローマ8:24以下、2コリント4:18。聖書を通じて、見える偶像が拒否され、見えぬ神への信仰がいわれることはこの角度からも説明できる。227(1)
21:1 20:31がいちおうの結びなので21章を後代の付加とする説もあるが、用語や文体も思想もヨハネ的であるから、福音書の一部と考えて差しつかえない。227(2)
21:7 ヨハネ13:23の注参照。227(3)
21:7 畏敬のゆえに。227(4)
21:7 この話はルカ5:4以下に似るが、イエスの死後ガリラヤ湖で大漁にめぐまれたとき、往時の思い出と復活信仰が前後しておこったと考えられる。227(5)
21:8 約100メートル。227(6)
21:11 50×3と3で三位一体を象徴するとか、人の漁夫ペテロの文字の数値を合わせると153になるとか(黙示13:18のような考え方)、古来この数の意味についていろいろな説がある。227(7)
21:17 ペテロが三度主を否んだこと(ヨハネ18:12以下)に対して、復活信仰が三度確認されたことを示す。227(8)
21:18 イエスの羊飼いとしての使命がペテロに委託され、彼の殉教が預言される。227(9)
21:23 ここは福音書はペテロの死後、高齢のヨハネによって書かれた模様を反映する。228(1)