1:1 マタイ1:1の注参照。069(1)

1:1 よいおとずれの意。イエス・キリストの来臨によってすべての人が救いに導かれるという朗報(ローマ15:19)。069(2)

1:3 イザヤ40:3マラキ3:1参照。069(3)

1:4 イエスの先駆者であるヨハネの出現に福音のはじめを見るのは初代キリスト教徒の思想で、四福音書のはじめにヨハネのことが描かれ、使徒の宣教でもヨハネのことがいわれる(使徒10:3713:24など)。ヨハネはエリヤにたとえられている(マルコ9:13)。069(4)

1:11 詩篇2:7イザヤ42:1エレミヤ31:20参照。069(5)

1:15 滅びに瀕したこの世とわが身には、イエスの福音によって神の国の近いことが知られる(マルコ13:20)。071(1)

1:21 マタイ4:13の注参照。この会堂の記事で、イエスの教えといやしとが一体であり、ともに神の権威によることが示されている。会堂では旧約聖書が読まれていたが、イエスはその真髄である隣人愛を徹底させて、見放されていた人々への愛を示したのである。071(2)

1:23 けがれた霊につかれたとは、こんにちの精神的な疾患のようなものである。当時霊は人格的存在と考えられていたので、いやしは病人から悪霊を追放するように描かれている(マルコ1:34)。071(3)

1:34 隠れた神とともに歩もうとするイエスは、みずからを隠れた存在にするためにしばしば沈黙命令を下した。多くの人が集まると政治的に危険視されるという顧慮もあったと推察される。マルコはたびたびこのことをいう(1:25443:125:437:368:30)。071(4)

1:38 カペナウムの町から、の意と、神のところからとの両意がある(ルカ4:43)。071(5)

1:44 イスラエルの伝統を重んじたこと、そしていやしが公的に認められて、いやされた人が新しい生涯に入りうるようにした様がうかがわれる。071(6)

2:10 マタイ8:20の注参照。073(1)

2:12 イエスは病の根源に罪のほだしを見、それからの解放が心身の健康に結びつくことを実際に示した。「人の子」に「わたし」と「救い主」と両意があり、イエスのいやしの段階で「わたし」の意味で用いられたのが、後にイエスが救い主と信じられた段階で「救い主」の意味を帯びたと考えられる。救い主すなわち罪のあがない主であるがゆえに、この説話全体にその権威が反映していると説明しうる。073(2)

2:14 マタイのこと(マタイ9:9)。カペナウムはヘロデとピリポとの領地の境で、ローマの収税所があった。取税人はユダヤ人でありながら同胞からローマのために税を取る役をしたので嫌われていたのである。とくに律法学者や厳格に律法や伝統を守ったパリサイ人は、彼らを軽蔑していた。イエスは愛をもって彼らを救い、正しい方向へ導いた。073(3)

2:16 多くの律法学者がパリサイ派に属していた。073(4)

2:19 キリストが花むこであること(ヨハネ3:292コリント11:2)と、彼が死なねばならないことがここに反映している。073(5)

2:22 イエスの教えが新しく(マルコ1:27)、彼によって新しい創造がはじまること(2コリント5:17)が示唆される。旧約的なヨハネと新約的なイエスとの対比である。073(6)

2:26 アヒメレク(1サムエル21:1)の子で、ここでは父にかわって言及される。レビ24:5以下参照。073(7)

2:28 ユダヤ教で形式化した安息日を破って隣人愛の実践に踏み切ったイエスに対して宗教専従者が反発し、ついに彼を殺すに至ったのである。073(8)

3:6 ヘロデは洗礼者ヨハネを捕えたヘロデ・アンテパスのこと(マルコ6:17)。マルコ8:1512:13参照。075(1)

3:8 死海の西南地方のエドムのこと。075(2)

3:13 群衆を避け、祈る(マルコ6:46)、など重要なことのため(マルコ9:2)。075(3)

3:17 ルカ9:54参照。075(4)

3:27 イザヤ49:2553:12参照。ここではイエスの中に強い力が働いていることがいわれている。075(5)

3:35 この前のところでパリサイ人との対決、この後のところで限られたものに示される譬え話の意味が示されるという文脈が大切である。イエスとともに歩む人々を真の身うちといったのは、独善的な遁世思想ではない。神意に忠実なものを中心とする新しい家族の形成である。イエスの死後生まれた愛の共同体に彼の肉親が加わったことにも意味がある(使徒1:14)。075(6)

4:12 イザヤ6:9以下参照。譬えの目的もマルコに多い沈黙命令(マルコ1:43など)の精神、すなわち少数の弟子とともに隠れた神に従うイエスの教えに沿う。077(1)

4:22 ことは隠れたままでなく、明らかにされるため、という積極面がある。単なる神秘主義ではない。少数のものに真理が示されるのは、真理が真理として力を発揮して多くのものに示されるためである。狭い門(マタイ7:13)の原則である。077(2)

4:23 申命29:4詩篇115:6参照。077(3)

4:29 ヨエル3:13黙示14:15参照。077(4)

4:29 この譬えはマルコ福音書だけにある。077(5)

4:32 エゼキエル17:2331:6参照。はじめは小さくともすべてのものが救われて、偉大な神の国が完成する。小さく隠れたものから救いがはじまるのが、キリストによる新しい創造の特徴である。077(6)

4:34 ダニエル4:18参照。077(7)

4:37 ガリラヤ湖では、東のシリア砂漢からくる風と、西の地中海からくる風とが出会って、嵐がおこることがめずらしくない。077(8)

4:41 救いを与える神の子の権威を信じるものには、彼が自然界をも制御すると信じた人々の伝えた物語の意味を理解しえよう。077(9)

5:1 マタイ8:28ではガダラ。人名地名の伝承に多少のずれがあるのは古代ではめずらしくない。077(10)

5:9 レギオンはローマ兵五千人。079(1)

5:19 沈黙命令とは反対の例外的な発言で、この話全体が異教的な地域でのローマ帝国に対する示威という意味をもつ。079(2)

5:28 権威あるものとの接触が、いやしをもたらすという思想による(マルコ3:106:56など)。079(3)

5:37 重大なときにこの三人の弟子が伴われている(マルコ9:214:32など)。079(4)

5:41 「タリタ・クミ」はイエスと弟子たちの日常用いたアラム語であるが、この形のままでギリシア語の福音書に記されるのは、もとのことばの威力を示すためである。マルコ7:34の「エパタ」も同様である。079(5)

5:42 蘇生の奇跡はナインの若者(ルカ7:11以下)とラザロの物語(ヨハネ11:17以下)にもあり、ペテロもタビタを生かしたと伝えられる(使徒9:36以下)。旧約のエリヤ(1列王17:17以下)エリシャ(2列王4:32以下)についても似た話がある。イエスの場合、彼が復活の神の子であると信じた福音記者によって、彼が活動の最中すでに人を生かしたという伝承がまとめられたのである。079(6)

6:6 信頼関係によってイエスは権威ある力を発揮しえ、またその成果が評価されて人々が神をあがめた。いやしに限らず、すべての奇跡はそれを体験するのは信仰の問題である。081(1)

6:7 弟子たちに自らの体験を教えて愛のわざに協力させ、自らだけで人々を従えようとしなかったのが、イエスの生き方である。しかし弟子たちは彼を理解せず、彼はひとり十字架につかざるをえなかった。081(2)

6:15 マルコ9:11参照。当時マラキ4:5のように預言者工リヤの再来が信じられており、イエスの先駆者としてのヨハネがそのエリヤとされた(マルコ9:11以下マタイ17:12以下)。081(3)

6:17 史家ヨセフス(『古代史』18)もこのことに触れている。081(4)

6:21 ローマ兵千人の長。081(5)

6:34 民数27:171列王22:17エゼキエル34:5参照。081(6)

6:40 イスラエルの民が組に分けられたことが想起される(出エジプト18:2125)。083(1)

6:44 この話全体に、イエスが弟子たちに食を与える実際の方法を教えつつ、彼らと協力する姿が見られる。083(2)

6:46 弟子たちを強いたのは、彼らも群衆もイエスの真意を理解しなかったからである。イエスはひとり山に入って祈らざるをえなかった(ヨハネ6:15)。083(3)

6:52 パンの奇跡も、湖上の歩みも、神の力によることを弟子たちは理解しなかった。神中心に歩むイエスが次第に弟子たちから離れる模様が、福音書の終わりに近づくに従って明白になる。083(4)

6:53 マタイ14:34の注参照。083(5)

7:1 弟子の無理解、群衆の増加につづいてこの箇所となり、つづいて異邦の娘のいやしに及ぶ文脈のうちに、当時のユダヤ教の指導者とちがって、自ら勢力を築かずに万人の救いを目ざすイエスの姿が現われる。083(6)

7:2 イエスは弟子たちに断食を強いず(マルコ2:18以下)、自由な生活を許した。彼は、律法を守りえぬものの救いのための奉仕という、律法遵守をこえる方向に弟子を導こうとしたのである。律法の形式的解釈がいい伝えを生むのである。083(7)

7:8 パリサイ時代のパウロもいい伝えに熱心であった(ガラテア1:14)。083(8)

7:12 供え物という形式的義務を果たすことによって、父母への扶養義務を免れさせて、宗団の利益をはかるユダヤ教への批判である。083(9)

7:26 シリア地方のフェ二キアの意(北アフリカのフェ二キアと区別して)。マタイ15:22のカナンと同じ。085(1)

7:30 イスラエル優先の原則に反して、異邦の人が救われる例である。085(2)

7:34 マルコ5:41の注参照。085(3)

8:2 マルコ6:34の場合と同じく、あわれみがイエスの行動の直接の動機である。断食を強制しなかった彼の温かさのあらわれともいえよう。085(4)

8:10 多分マグダラであろう。マタイ15:39参照。085(5)

8:12 マタイ12:38以下参照。当時世の終わりに徴があらわれると考えられていた(マルコ13:4以下)。人の目をおどろかせる徴をパリサイ人が求めたが、それは荒野の試み(マタイ4:1以下)を思わせる。イエスは徴そのものを否定しない(イザヤ7:10以下)。彼にとっては罪あるものが救われて、永遠のいのちに入るというのが真の徴である。このことはヨハネ6:26以下に詳しい。085(6)

8:32 これまで譬え話その他で、隠れた形でいわれていた受難のことを、これから明白にいわれるようになる。しかし弟子たちはそれを理解せず、イエスの死後、復活信仰が与えられてはじめて理解する。087(1)

8:38 姦淫とも訳せる激しい形容。神との契約を破って不義を犯す人間の世である(エレミヤ31:31以下)。しかし、そのようなものにも救いを与えるのがイエスである。087(2)

9:3 白い着物は、天使のように神に近いものをあらわす(マタイ28:2黙示3:44:4)。ここで弟子たちが尊敬するイエスが、超自然の姿で彼らの目に映じたのである。ただ、復活のイエスは「別の姿」であったが(マルコ16:12)、天使でなく、十字架についた傷をもつ姿であったことは注目すべきである(ヨハネ20:25)。087(3)

9:7 詩篇2:7など参照。087(4)

9:12 マラキ4:5参照。087(5)

9:23 信仰の力のことはマルコ5:3611:24など参照。089(1)

9:25 霊は人格と考えられていたので「出よ」といわれる(マルコ5:8など)。089(2)

9:37 この三段階に、三位一体を指向する潜在的な形が見られる。089(3)

9:40 この箇所は、イエスの精神が行きわたって実践されることが重要であり、弟子の仲間に加わらなくてもよい、というイエスの幅広い態度を示す。089(4)

9:43 4446節の異本は48節と同じ。089(5)

9:48 イザヤ66:24参照。089(6)

9:49 パレスチナでは、塩を触媒に用いる風習があった。それで、ここの意味は各人が火の試練を経る、の意味にとれる。089(7)

9:50 マタイ5:13参照。塩の連想で、このイエスのことばが並べられたのであろう。089(8)

10:12 マタイ19:9では申命24:1のように夫のことだけであるが、マルコがここで夫と妻との双方についていうのは、ギリシア・ローマ世界を想起させる(1コリント7:1013)。091(1)

10:15 子どもは全き依存を必要とする。神の国は、すべてを父なる神に依存せねばならぬ人に備えられている。091(2)

10:21 マタイ6:20参照。091(3)

10:38 杯は苦しみのしるしである(マルコ14:36イザヤ51:17エレミヤ25:15など)。洗礼は水に浸ることで死につながる(詩篇42:769:14イザヤ43:2ローマ6:1以下など)。091(4)

10:47 待望の救世主の称号。イエス自身はこの称号に重きを置かない(マルコ12:35以下)。093(1)

10:51 ラボニ(ヨハネ20:16)。師の尊称である。093(2)

11:9 詩篇118:25以下参照。093(3)

11:17 イザヤ56:7エレミヤ7:11参照。093(4)

11:17 イエスの行動はゼカリヤ14:21の預言を成就する。093(5)

11:23 マタイ17:20参照。093(6)

11:24 マタイ7:7参照。ここで信仰と祈りとは同じ力をもつことがいわれる。093(7)

11:25 マタイ5:23以下参照。093(8)

12:1 イザヤ5:1以下参照。095(1)

12:11 詩篇118:22以下参照。095(2)

12:17 熱心党はローマへの納税を拒否したが、イエスは平和的であり、宮の納金も納めている(マタイ17:24以下)。イエスは市民としての普通の生活のうちに、神中心の隣人愛の方向を示したのである。パウロも平和と秩序を重んずる(ローマ13:7)。 095(3)

12:19 申命25:5以下創世38:8以下参照。095(4)

12:25 サドカイ人は天使をも否定する(使徒23:8)。イエスは、復活体は肉体的な汚れのない霊の体であるという。全体としてイエスの考えはパリサイ人のそれに近い(マタイ23:3)。095(5)

12:26 出エジプト3:6参照。イエスはサドカイ人もその権威を認めるモーセ五書の一部を引いて論じている。神は死者のものでなく、生者アブラハムに啓示され、彼らを導いた神であるから、死者も復活して神の前に天使のごとくなる、という意味である。095(6)

12:30 申命6:4以下参照。097(1)

12:31 レビ19:18参照。097(2)

12:32 出エジプト8:10申命4:356:4イザヤ45:21以下参照。097(3)

12:33 申命6:5レビ19:181サムエル15:22参照。097(4)

12:36 詩篇110:1参照。097(5)

12:42 最低の貨幣単位。コドラントはマタイ5:26にも出る。097(6)

13:1 イエスは宮の建物の立派さを重んぜず、神の住みたもうところとしての宮を愛し、それを清め(マルコ11:15以下)、そこで民を教えた(マルコ14:49)。そして体を神住みたもうところとして宮にたとえた(ヨハネ2:21)。097(7)

13:7 ダニエル2:28参照。以下この章には旧約からの引用が多い。マタイ24章の諸注参照。097(8)

13:10 7節の、この世の人のいう最後は真の最後ではない、を受けて、万人に福音が説かれることに最後の状態を見るのがイエスである。これが新約的終末の特徴である。097(9)

13:26 雲は神の臨在を示す(出エジプト34:5など)。人の子すなわち救い主が権威をもって来臨する模様はパウロも描く(1テサロニケ4:16以下)。099(1)

13:27 全世界から救われるものが集められて、神の国が完成する意。099(2)

13:32 イエスは世の終わりの時についての人間的思弁を捨てて、すべてを父なる神にゆだね、現在すでに働く救いのみわざに神の国の迫ったのを見たのであろう。099(3)

13:37 少数の弟子にいわれたことは、すべての人にいわれたことである(ヨハネ17:20以下)。099(4)

14:1 マタイ26:2の注参照。099(5)

14:3 マタイ26:7の注参照。ナルドはヒマラヤ産のおみなえし科の植物。099(6)

14:13 マルコ11:1以下のエルサレム入りの場合に似ている。イエスはヨハネ福音書の示すようにたびたびエルサレムを訪ねていたから、知人もあったと推察される。水瓶をかついだ人が奴隷(申命29:10)であったか否かは別として、身分が高くなかったことは事実である。イエスはこのような人々を相手に神の国の福音を説き、彼らの助けによって最後の食事の準備をしたのである。099(7)

14:21 聖書の箇所は直接には詩篇41:9ヨハネ13:18)であるが、イエスの死が聖書全体の成就とも取れる。101(1)

14:24 出エジプト24:8エレミヤ31:31ゼカリヤ9:11参照。なお、「多くの」はマタイ20:28のように「すべての」と取れる。101(2)

14:27 ゼカリヤ13:7参照。101(3)

14:32 「油の圧搾場」あるいは「油の谷」の意。オリブの木の多かったところであろう。101(4)

14:35 「時」は単なる時間でなく、そのときおこる事柄である。101(5)

14:36 父の意。ローマ8:15ガラテヤ4:6参照。101(6)

14:36 「杯」についてはマルコ10:38の注参照。人間イエスとして苦しみを避けるよう祈りつつも、神の意の達成を祈ったところに神の子の面影がある。101(7)

14:44 当時、師弟の間で交わされた挨拶の形である。101(8)

14:49 27節およびイザヤ53:7参照。101(9)

14:51 著者マルコ自身との説が有力である。101(10)

14:58 ヨハネ2:19以下によれば、イエスは別の意味でこれと似た形のことをいわれたことは事実である。103(1)

14:61 神のこと。神の名を直接発言しないため(出エジプ卜20:7)。103(2)

14:62 ダニエル7:13詩篇110:1参照。103(3)

15:7 バラバが政治的煽動者であったことを示す。103(4)

15:8 総督の本営が丘の上にあったからである。103(5)

15:17 茨の冠は侮辱と苦痛を与えるためと考えられる。103(6)

15:21 この二人の息子が初期キリスト教徒に知られていたので名が挙げられたのであろう。しかし共に当時多い名であった。103(7)

15:24 マタイ27:35の注参照。105(1)

15:28 イザヤ53:12参照。105(2)

15:38 宮の幕の裂けたことがいわれるのは、異邦人への救いの道が開かれたことを意味するという解釈もある(ヘブライ6:19以下)。105(3)

15:40 イエスの母マリヤの姉妹(ヨハネ19:25)。105(4)

15:40 ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母(マタイ27:56)。105(5)

15:42 ユダヤ教の安息日は土曜日。105(6)

16:12 パウロのいう霊の体(1コリント15:46)。復活体は信仰の次元で把握しうるもの。直接物理的生理的現象ではないが、信徒のはたらきにおいて物理的生理的な姿をとる。105(7)

16:19 詩篇110:1参照。106(1)

16:20 9~20節は主な写本にはなく、マルコ自身のものとは認められていないが、初期キリスト教の古い資料である。最後にあげたのは別の写本にある結びである。106(2)