創刊のことば

  ひとり聖書の本文に親しんで,いささかなりとその意味を理解し,形式的な礼拝や複雑な教義では与えられない深い救いのよろこびを体験した人の数は測り知れません.それは聖書のうちにイエスの言行,弟子たちの消息,古いヘブライの伝統などが豊かに収められていて,キリスト教成立当初の清純な福音そのものの姿に直接触れることが出来るからであります.宗教改革以来聖書が重んぜられ,今日1,000をこえる諸国語に訳されて全世界的に普及し,文字通り定冠詞つきのザ・ベスト・セラーになったのは,中世的な教権からの解放の動きであり,それはイエスがユダヤ教の礼拝や教義からの解放をもたらし,彼の福音が平易なことばで伝えられた史実に直結するものであります.ことは更に古く,強大を誇ったオリエントの諸文化圏で文字は偶像を拝む特権階級の専有物であったのとちがって,小さく貧しいヘブライの人々の間に見えざる義の神を中心とする共同体が生れ,隣人愛の精神が民衆に近づきやすい平易な文字でしるされた旧約聖書に溯ることが出来ます.イエスがこの愛の成就のために戦って十字架上に亡くなった事実とその解釈をしるすのが新約聖書であります.

  戦争前夜の暗い時に福音の光に接し,同胞にも自らにも聖書を理解しやすくしたいとの希望を与えられて今日に至りました.戦争のため13年近くも外国生活をし,日本へ帰れたのは1950年の秋でした.その後2度外遊いたしましたが美しい大和島根の同胞とともに母国語で聖書を学びたい気持は強くなるばかりです.至らないわたくしですが,学的には世界の最高水準を目ざしつつ,平信徒として,出来るだけ平易な形で恩恵のお福分けをさせていただきたいと思って筆をとりはじめます.“全き知識には及ばぬわれらのこと,たとえ少なすぎても何かいう方が何もいわぬよりはよかろう”というヒエロニムスのことばはまたわたくしの心境でもあります.