異境で或る夕べに思う |
カナダの東にあるモントリオールは人口150万の大都会で,英仏両語が用いられ,フランス語を話す人が100万以上なので,パリーに次ぐ世界第二のフランス的な町です.町全体垢抜けした感じがし,ラジオの番組も毎晩古典音楽があるといった具合です.昨年の夏学徒としてそこに招かれまして,各国の代表と3週間ばかりを過しました.ギリシア語の聖書をポケットに入れていて,色々学問的な討論をすることと,新約聖書における和解について講演することがわたくしの主な任務でした. ある晩おそくのことです.どうやらその日の務めを終えた快い疲れを感じながら静かに机に向いました.宿舎は大学の一部で丘の中腹にあり,町の光りがずっと見渡せます.日本製のトランジスター・ラジオからは美しい音楽が聞えて来ました.そのそばには,何かの役に立とうと持参したポケット版の英和・独和・仏和三冊の辞引があります.手にとって見ますと,紙,印刷,製本など皆素晴しい出来です.段々身の廻りに視線を移しますと,万年筆も眼がねも衣類も皆日本製です.目の前にあるものでカナダへ来てから買ったのは郵便切手と絵はがき位のものです. そこで考えました.こんなに便利なラジオや本などを作る日本人が聖書を学ぶための道具立てとしてこれらに相当するものを持っているのだろうか,と.便利なものがあったとて勉強がすぐ出来るわけではなく,信仰が第一ですが,多くの平信徒が聖書を学んで需要が増せば勉強の道具立てもよくなり,そうすればますます勉強し易くなると考えました.また,日本列島が一つ国語で,古い文化を持ち,義務教育が普及していることも,わが国に真の福音がしみ通るための器として特別に恵まれたものと思いました.遥かに祖国の空を仰いで,救いのよろこびが一人でも多くの同胞に伝わるようにと祈らされた次第です. |