再び祈りの支えについて |
アジアの旅行から無事に帰れた感謝にあふれつつ,前号で祈りの支えについて書くことができました.あの文章に温い応答がありましたが,その方々ばかりでなく,わたくしのために祈り,またいろいろな形で励まして下さる方々の多くはこの世の荒波にもまれ,また今も孤独で荒波と戦っておられるのです.本誌の副題の“ひとり学ぶ友に”が現実であり,それらの方々とお会いしたことがなくても,そこに聖霊による強いつながりがありますのは,エクレシアのひとつの形であると思わざるをえません. とくに,ことばには表れずとも,わたくしの至らなさ,すなわち罪が神の子ゆえにゆるされるよう祈りつつわたくしの罪のすべてをゆるしていて下さる方々に囲まれていることを感じます. こうした方々はわたくしの書くものが不完全であっても,互いに学びつつある真理のゆえにその不完全さが温い愛で覆われて,真理だけが伝わって行くようです.聖霊のおかげです. 何回つづくだろうかと思われた日曜聖書講座もこの暮には25年になり,本誌も14年つづきました.心身ともに弱いわたくしには苦しい重荷でしたが,多くの方々の祈りの支えが事実として目に見える形をとって来たといわざるをえません. 結局,自らの罪をゆるされて救われるよろこびを与えられるものは,自らを神として他人を裁かず,つねに他人のために祈ること自体を救いの一部として体験しうるのではないでしょうか.主の祈り(マタ6:9-13マタ6:9-13 <主の祈り> 9それゆえあなた方は次のように祈りなさい。 天にいますわれらの父上、 あなたのみ名が聖められますように。 10あなたのみ国が来ますように。 あなたのみ心が行なわれますように、 天のように地にもまた。 11われらのその日の糧(かて)をきょうもお与えください。 12われらの罪をおゆるしください。われらも罪を犯した 人をゆるしましたから。 13われらを試みにあわせず、悪者からお守りください。 )の一語一語が生活の中に実感として迫ってくるのは大きな恩恵です. |