日本のなごやかさ |
今から10年ほど前,家の近くの停車場の前にバラック建ての市場がありました.元気よく叫びつづける魚屋から日用品などあらゆるものの店がやっと人がすれ違える位の通路の両側に並んでいまして,アジアの港町のような東洋的な雰囲気が帰朝後間もないわたくしに殊の外なつかしく感ぜられたものです.その通路をはさんで二軒の果物屋がありました.全く別の店ながら競争心など少しもなく一方の店の人が留守の時はそのお客にもう一方の店の人が応待し,小ぜにの籠に手をつっ込んでお釣を出すといった具合でした. そんな情景に接するたびに思いは戦前に走りました.学生時代に運動選手を含む数十名の猛者と毎年のように信越国境のある村へ合宿へ行ったものです.今はスキー場ですがその頃は電気も通じないひなびた温泉宿で,山腹の道をへだてた二軒に分宿するのが常でした.その二軒の家同志何と仲が好かったことでしょう.子供同志喧嘩しているのを見つけた一方の宿の親が自分の子に向ってお前が悪いと叱りつけ,理屈なしに手をついて相手の子に謝らせているのを見受けたこともあります. これらに反対の例は毎日の新聞に出ていますし,歴史上も内乱や同宗同門の争いなど困ったことが沢山ありました.しかし,日本のなごやかさが世界的であり,この島にたどり着いたわれらの祖先が,争えば海に落ちると思って協力したことが,日本を外側から見ると少しくわかるように思います.煩を打たれたらもう一方の煩を出せ(マタ5:39マタ5:39 しかしわたしはあなた方にいう、悪者にさからうな。あなたの右の頬を打つものには、ほかの頬をも向けよ。),信徒同志にもめごとがあったら自分は悪ものになれ(Ⅰコリ6:7Ⅰコリ6:7 そもそも互いに争いがあることが、すでにあなた方の敗北です。なぜむしろ不義を受けませんか。)という精神がひとり聖書を学ぶ同胞の聞に泌み込んで行くのは意味深いことです.若き友の間に,苦難のうちにこの世ならぬ信仰生活が実践されていく様を示されますと,明日への希望も深まるばかりです. |