春の明暗 |
花に緑に装いをこらす武蔵野に鳥のうたうのを聞きますと,いい知れぬ解放感をおぼえますが,それとともに,春にそむいて世を去った人々のことも思い出されます.時候の変り目と簡単にいい切れない恐しいものが春にうごめくのが目に見えるようです.もう数年前になりますが,ある学者たちの会合の時でした.学年末で試験その他に忙しく,疲れている様子がみんなの顔に現われていました.日が暮れていらだたしきも加わったのでしょうか,或る人の発言にからみ合って奮然立上った彼を見ますと,飛び出したような目をし,唇は真青で手先がふるえ,口がつまって云いたいことが云えない様子でした.それから何日かして,その働きざかりの人が急に心臓障害で亡くなりました.数日前の興奮状態はその前兆だったことは明らかですし,日頃の言動にも思い当ることがあります. このような例は別に珍しくないのですが,イエスの時代の人々が悪霊につかれたというのはこうした場合に相当するのでしょう.現代人が病気を抽象的に考えるのを古代人は悪霊という具体的な存在として表現したのであって,それは神と人とを離す罪の元として悪魔ともいわれたものです.天使とはこれと正反対の清らかな存在の人格化ということが出来ます.古代では生理心理倫理の区別を超えて人間性が綜合的に観察されていたことが想起されます. かく考えますと,聖書もますます現代性を持って来ますし,もしもあの有為な知識人が聖書を読んでいたらと思います.知人としてのわたくしに愛が足りなかったことも反省させられます.罪を示されて苦しみつつも,その罪を十字架ゆえにゆるされて,人をもゆるし,共に復活する希望が与えられたならば,あのように興奮しなかったでしょう.身近かに接する春の明暗は,福音が人間の心身を変えて新しい光に導くことを教えてくれるように思います. |