不安の中の平安

 われわれに不安のつきまとうとき,その不安の根源をたずねますと,天災人災の予感とか人間関係のもつれとか外側から来るものもありますが,過去の自分の至らなさを示されるとか,現在の自分の弱さがわかるとかの内側の場合が最も切実です.ここに修養などいろいろな努力がなされはじめるか,すべてを否定する虚無主義や刹那的な満足感で欲望を満たそうとする快楽主義が生れて来ます.これらは感情に訴える一時しのぎの解決策に過ぎず,不安の解消にはなりませんので,そこに宗教が発言権を待って来てこの世のすべてをあきらめて来世に望みをつなぐようすすめ,一応の安心立命を与えようとします.

 聖書は何というでしょうか.イエスの生涯を見ますと,蓮のうてなで大悟徹底するのでなく,苦しんで人に仕え,人に平安を与えようとした事がわかります.人のためにどうしても死なねばならないという時に,苦しみの祈りがつづきました.十字架上での叫びはあまりにも悲惨でことばにあらわせません.パウロも日毎に死すとかキリストの苦難を身に負うとかいっております.このように,聖書の示すところは所謂宗教とは違っていて,不安を自ら克服して悟りの境地に達しようとするのでなく,自らの平安を確保してから他人の事を考えるのでもありません.“与えるは受けるより幸福使徒20:35 わたしはすべてについてあなた方に示しましたが、このように働いて、弱いものを助けるべきです。そして、主イエス自らがいわれた、受けるよりも与えるがさいわい、というおことばを思い出すべきです」と ”とイエスがいわれるのは,平安そのものについてもよくあてはまります.どんなに不安にとじ込められでも,人のために祈るとき,いい知れぬ平安が訪れるではありませんか.“愛にはおそれなしⅠヨハ4:18 われらにとって愛が全うされるとは、裁きの日に確信を持つことです。われらにそれができるのは彼が愛にいますようにわれらもこの世で愛であるがゆえです。愛にはおそれがありません ”という使徒ヨハネのことばも,不安が増せばそれを上廻ってわが身を包む神の愛が分ち与えられるよろこびを説明してくれると思います.