モリヤの山

旧約・新約を通じてアブラハムは信仰の模範として描かれており,殊に彼が長子イサクを捧げた物語り(創世22章)は人の心を打つものがあります.神命に絶対服従してモリヤの山に行き,従者と別れて親子二人となり,イサクを犠牲にしようと刃物を向けたとき,“わらべに手を触れるな創世 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(新共同訳)”という天使の声がします.目をあげるとやぶに羊がいたのでそれを犠牲として捧げ,祝福のことばが与えられています.神と人との関係を示す心理描写など 3000年後の今日なお文学的な香りをもって追って来ます .この迫力はアブラハムの偉大さでなく, 犠牲をそなえたもう神の愛のゆえです.それが罪なき神の子の死によって犠牲を捧げる力のないものに救いが及ぶという福音の型を示すからともいえましょう.

 しかし,もしわたくしがモリヤの山でアブラハムの側にいたとしたらどうでしょうか.天使の声はアブラハムにだけ向けられたのですし,それは神と彼との間のことです.近くにいた羊を見てイサクを捧げることを思い止るよう誘惑されたとも取れるでしょう.わたくしはアブラハムを変心とか堕落とかのことばで責めたかも知れません.

 こう考えると,信仰の秘密がうかがわれるように思います.神にすべてを捧げる決心をしながら,いざという時に実行せず,あるいは実行出来なければ,人から背教者とか偽善者の烙印を押され,自分自身でも不信仰をなげかざるを得ません.そのとき,自ら犠牲となって十字架上に死なれた神の子のいさおしによって如何なる罪もゆるされるがゆえに犠牲無用という福音の有難味がしみじみ感じられると思います .