信仰なきわれを

 人が救われるのはキリストを信ずる信仰のみによるのであって,自ら律法の条項を満たして善行を積むことによらないというのは福音の根本であります.善をなしてそれだけ神に近づいたと感ずること自体の中に自らを神にして真の神から遠ざかるという危険があり,ひたすらな信仰によってその危険を避け得ます.

 しかし,信仰――信じて仰ぐ――という用語のために折角の福音も誤解され勝ちです.あの人は立派な信仰の持主であるとか,このことは信仰の進歩や飛躍に役立つとか,わたくしは信仰の至らぬものでして,などとよくいわれますが,これらの場合信仰が信ずる人のわざとかいきおしと思われるふしがないでしょうか .信仰の英雄といわれると,もはや偶像です.

ローマ書を見ますと,人間はすべて罪があるから救われる資格はないが,罪なき神の子の死によって罪をゆるされる,すなわち恩恵によって救われることが強調されています(3:24ロマ3:24 しかし、代償なしに、神の恩恵によって、キリスト・イエスのあがないのおかげで、義とされるのです。).信仰に相当する用語(ピスティス)も出ますが,それは神のピスティス〈まこと〉(3:3ロマ3:3 それはどういうことでしょう。あるものが不信であったとしても、その不信は神のまことを無にしますか。)がもとであります.信ずることが出来ないものに恩恵として神の“まこと”が分かち与えられて信ずるようにされるのであります.同じローマ書(5:6ロマ5:6 キリストは、われらがなお弱かったときに、時をたがえず、不信のものたちのために死んでくださいました。)でキリストが不信のもののために死んで下さったとあります.いわゆる信仰が無いもののために新しい救いの道が開かれたのであり,それは全面的に神の側からの思恵であります.人間の側のあり方に関係なく救われるのですからそこに無条件の救いの保証があります.もし少しでも信ずることが出来るならば,それは恩恵のはたらきであり,人間の側でとやかくいえるものでありません.ここに他人から不信仰といわれでも神が見棄て給わないという慰めがあります.“信じます.信仰なきわれを助けたまえ”と救世主の前に叫んだ人の姿(マル9:24マル9:24 その子の父はすぐ叫んだ、「信じます。不信のわたしにお助けを」と。)は恩恵のありかを指示すと思います.