勢力をよそに |
キリスト教の歴史において,ローマ教会の発達とともにエルサレムを中心とするユダヤ教の影がうすくなって行きます.地中海沿岸の文化世界に次第に福音が進展する様は古代史上の著しい出来事です.しかし,イエスも弟子たちも“イスラエルの失せた羊”即ち同胞のために働くことを主眼とし(マタ10:6マタ10:6 むしろイスラエルの家のうせた羊へ行け。;15:24マタ15:24 彼は答えられた、「わたしがつかわされたのはイスラエルの家のうせた羊にだけである」と。),従来のものに対抗して新勢力を作ろうとはしませんでした.パウロもエルサレムを重んじて寄附の取次ぎをしています(Ⅰコリ16:3Ⅰコリ16:3 わたしが着いたとき、あなた方の選んだ人たちに手紙を託して、あなた方の贈りものをエルサレムへ持っていってもらいましょう。). キリスト教が数世紀にして一大勢力になったことは元来貧しい信徒の集まりであっただけに意味深いのですが,その新勢力はローマの東西分裂を生みました.マルチン・ルターもはじめからカトリック教とは別の新教を設立しようとは思わなかったのですが,宗教改革の歴史は進展し,英国教会のローマからの離脱,更にその英国教会からのメソジストの独立など,現存数百の教派に至る分裂活動が見られます.勢力が形式や行動を重んずるうちに温い福音からはなれて律法化がおこるのはおそろしいことです. 分派のひずみを反省して全教的(エキュメニカル)にというのが今世紀の信徒の願いですが,それは超教会という勢力の建設ではありません.中世的な劃一主義でなく,世界各地の信徒がそこの国語や形で信仰生活をするのが現代のエクレシアのあり方です.われわれは勢力もなく,新しい宗団を組織せず,初代の信徒のように低く隠れた存在でありたく思います.時には例えば学徒として協力もしましょう.“この山でもエルサレムでもなく,霊と真をもって”(ヨハ4:21以下ヨハ4:21以下 21イエスはいわれる、「わたしを信じなさい、女の方、この山でもエルサレムでもなく父を拝する時が来る。22あなた方は知らぬものを拝し、われらは知るものを拝する。救いは(われら)ユダヤ人からのゆえに。23しかし、真の礼拝者が霊と真で父を拝する時が来る。否、もう来ている。父もこのように彼を拝するものを求めたもう。24神は霊にいます。ゆえに拝するものも霊と真で拝すべきである」と。25女はいう、「キリストといわれるメシアが来ることを知っています。彼が来ると、すべてをわれらに告げるでしょう」と。26イエスはいわれる、「あなたと語るわたしがそれです」と。)といわれたイエスのみわざが聖書を通じてわれらのうちにも静かにしかし力強く行なわれるのが見えるようです. |