初めの実 |
人が救われるのは善い行ないを積むことによるのではなく,神から与えられる恩恵による,即ち,罪のない神の子の十字架上の死によって如何なる罪のある人も救われる,という福音の真髄に慰められるわたくしですが,何故選(よ)りに選ってこのわたくしが救われるのか,また,わたくしは救われるとして,他の人々はどうなるのか,という疑問がよく起こって来ましたし,今もよく人からきかれます. その時,神は先ず弱いもの,罪あるものから救おうとなさるのであって,われらは“初めの実”である(ローマ8:23ロマ8:23 そればかりでなく、霊の初穂を持つわれら自身も、顧みてうめき、子とされることを、すなわちわれらの体のあがなわれることを待っています。)ということが何と力強い答えを与えてくれるでしょう.これは大きな国民でなくて,小さく弱い民が先ず神に選ばれて愛されたという救いの歴史(申命7:7申命7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。(新共同訳))にも直結します.正しいものをでなく罪あるものを招くことを使命とされたイエス(マル2:17マル2:17 イエスはそれを聞いて、彼らにいわれる、「医者を要するのは健康人ではなくて病人である。わたしが招きに来たのは、義人をではなく罪びとをである」と。)を神の子と信ずることとも離せません. 自らの弱さのゆえに暗い状態に落ち込んだときに,何故救いの光が直射して来るのでしょうか.神が先ず弱いものを求めたもう方であるからです.そして,自らのようなものにこのような恵みの光が与えられるならば,他の人も必らず何時か救われるという約束もそこに含まれていると思います.ここに,愛するものとともに救われるという希望も生まれて来ます. さらに,人から誤解され,非難攻撃されるとき,自らがますます罪に気付いて十字架にすがりながらその人のためにも祈ると,この救いのことがより明白になります.自らを責める人を愛し得るように,そしてその人と一緒に救われるように祈るところに,真の救いのはじまりがあるといえましょう. |