身近かの示唆

 ある知識人の会合のときでした.長年親しくしていたA氏と立話ししているところへ,これまた親しいB氏が来ました,AB両氏も互いに友達同志ですが,A氏はすぐに立去ろうとしました.わたくしが引止めましたのでしばらく3人で話していましたが,A氏は気まずそうでした.それから後でわかったのですが,A氏はB氏にわたくしのことを兎や角云っていたので気まずかったのです.こんなこともあります.X氏とY氏はよく協力する同僚で,わたくしは両方から親しくされていました.何かの用件でX氏とわたくしは一緒にY氏と会いましたが,その時Y氏は不快な顔をしました.X氏とわたくしの二人に同時に会って,Y氏は一種の自己分裂を体験したのでした.

 気まずさが前に行なわれたことの結果であることは否定出来ません.全然気まずく思わないよりはいいともいえますが,それは動物よりはましということです.このような気まずさが元で病気が起り,後で気まずくなるに決っている下手な多角外交をすれば国民をそこないます.こんなところにもただひとりの神の義の働きを見ることが出来ます.個人にも社会にも神を信ずると幸いがともなうということが身近かに示唆されていると思います.

 弱い人間は義ではあり得ず,十字架による罪のゆるしによって義とされるという福音がこのただひとりの神へと導いてくれます.義とされるわれらは罪の恐ろしさから解放されていますが,それだけに日常接する不信の世の姿が救いの有難さを説明してくれると思います.自分自身が誘惑にかからないように,そして世の人々とともに救われて気まずさや不幸の無くなる国が来るように,と祈らないではいられません.