エクレシアの布石

 この頃直接間接によく耳にしますが,あなた方はいいけれども,ずっと後になって集りなどはどうなるのですか,とか,あなた方に未知の人々を考えておられますか,などという質問が絶えずなされているようです.われわれの行き方を理解する外国の人々からも好意的な心配として同じような形のことがいわれます.これは新しいことではなく,例えば1922年にドイツのカール・ハイム教授が内村先生と会われた後でも,内村氏はいいが彼の後はどうなるのだろうと或る方に洩らされました.事実が最良の返答です.先生の死とともに集会も雑誌も止みましたが,先生の著作はますます広く読まれ,先生のお弟子たちが各地で独立の集会を開き雑誌を出して来られました.これからも似たようなことがつづくでしょう.予算や人事の問題がつきまとう組織となることを避け,この世的な勢力として結集しようとする動きが排されますので,家庭的な平信徒の集りが各地に出来て行くでしょう.いわゆる宗教現象とは違った様子で福音の精神が伝わって行くのです.職業的宗教家は自らの勢力を守るために制度や組織を作ろうとしますが,われわれはそれらから解放された自由な世界で救いの恩恵を受けることが出来ます.

 教義や制度が出来る以前に書かれて清純な福音を伝える聖書の読まれるところ,人の手によらないエクレシアの布石が与えられることはわれわれの歴史が物語っています.時間的にも空間的にも人間の側から見ての間隙や中断があっても偉大な救いの聖業には連続性があります.われらの過去と現在が未来の方向を指示するに必要かつ充分なものですし,儒教や仏教を取入れたこの日本にイエスの福音の真の姿が知られた暁の素晴しさへの希望もいや増すと思います.