知らぬ罪のゆるし

 戦争が終りになる頃のことでした.当時ジュネーブにおりましたわたくしは勤め先の大学の近くのタイプライターの器械や印刷を扱う店によく行きました,論文のコピーを6部作ってなるべく早くドイツへ送る必要があったからです.その店で働いている婦人のひとりが或る日わたくしを恨みと憎しみに満ちた目付きでにらみつけていました.中立国のスイスとはいえ対日感情のよくなかった当時でしたので,反日家の娘だろう位に思っていましたが,後でそうでないことがわかりました.わたくしは店に無理な註文をしたわけではないのですが,約束の期限に間に合わすために店主がそのタイピストを何日も散々働かせたのでした.

 ただ一人何年も外国にいて淋しいと思ったことはありませんが,あの時は居たたまれない気持に襲われました.思いもよらぬ形で人を何日も苦しめたことになったと知って,自らの気ずかないところにどんな罪を犯しているかわからなくなったからです.

 罪というものを自分で見つけ,それを改めることによって救われるのならば,それは小さな自分の判断や知識や努力に頼ることになります.自分の知らない罪が無限にあることを思いますと恐ろしさで一杯です.

神はわれらがなお罪人であったとき,罪なき独り子を賜わった(ロマ5:8ロマ5:8 しかし、まだわれらが罪びとであったときに、キリストがわれらのために死なれたことによって、神はわれらに愛を示されました。)という福音の何と慰めに満ちていることでしょう.神の側から無条件の愛によって先廻りして救いの道を備えて下さったのであって,人間の側での悔改めも神からの賜ものであることが少しくわかりました.知らぬ罪もすべて神の側でゆるされているというところに,すべてを委ねまつることが出来る根拠があると思います.