忘れ得ぬ歌のひとつ

 わたくしの好きな歌の中にこんなのがあります.

       山の法師のもとへつかはしける
   世を捨てて 山に入る人 山にても
       なほうきときは いつちゆくらむ   躬(み)恒(つね)(古今集)

 もちろんこの歌に信仰を教えられたのではありません.しかし,長い在欧中手もとにあった少数の日本の書物の中でこれを見つけたとき,ああこれだなあと思わせられたことが忘れられません.

 ふとした機会に修道院に招き入れられたこともあり,神学校のお客になったこともあります.学徒としての交際は何のとらわれることなしに出来ますし,個人としては立派な紳士と近しくなれたのですが,日本で若い時から平信徒としての生活へと導かれたことの有難さがしみじみと感ぜられました.

 その有難さには二つの面があります.一つは集団生活や固定した組織にしばられますと,どうしても信仰的な無理が出来るからです.宗教の勢力を維持するために他の人にはいえない必要悪が避けられないからです.今一つは個人として俗界から分離しますと,それだけ聖くなったようですが,そのいわゆる聖別なるものによって普通の人よりも高く置かれることは堪えられません.

祭司でなく,宗団を組織しようとせず,この世で苦しむ人々に救いのよろこびを伝えたイエスを救い主と信ずる幸福はこの角度からも明白に把握出来ましょう.この(サマリアの)山でもエルサレムでもなく,父なる神を拝し得ること(ヨハ4:21ヨハ4:21 イエスはいわれる、「わたしを信じなさい、女の方、この山でもエルサレムでもなく父を拝する時が来る。),キリストゆえに神いますところはすべて,即ち今ここが聖所であり.如何に罪深くともそのままで救われるというのが彼の福音であります.