
祈るものの立場 |
政界の腐敗,物価の値上り,事故続出など世の中は暗さを増すばかりですし,国際状勢を見ますと,この先一体どうなるのかと思わされます. どうせこの世は駄目だから,なり行きに委せて,自分はその日その日を出来るだけ楽しく過そうという人が沢山あります.世情不安によってレジャー・ブームが生じますし,一時的に感情の安定を与える諸宗教も盛んになります. 社会悪に気づいた人が街頭で叫んだりマス・コミで大衆に訴えたりすることもしばしば見受けます.悪を悪とすることは結構ですし,社会秩序の認識と維持はすべての人の責務です.しかし悪の指摘だけで事は済まされるでしょうか.困った政治家に退陣してもらった後は大丈夫なのか,選挙された議員だけを責めて選挙した人は知らん顔が出来るのか,など色々問題は残ります.人間の批判の限界が目に見えるようです.実際上も何々すべしという律法的な行き方だけでは片付きません. 世のはかなきに押しつぶされ,自らの無力のゆえに行きつまって,独り子を賜わる愛の神に依りたのむものには別の次元があります,一時的な快楽や逃避でもなく,また人間的な尺度での批判をつづけるのでもありません.無限の愛の源であり,全能にいます神にひたすら祈りつつ,与えられた持場で,偉大な救いの御業に参加させていただく平安と喜びの境地です.異教的な恍惚境に浸るよりは旧約的な予言の方がいいが,それより勝ったものがある,と新約的な愛の讃美歌をうたった使徒パウロ(Iコリ13章Iコリ13章 <愛なくば> <愛のはたらき> <愛は永遠に>)を想起したく思います. |