一条の光 |
つるべ落しの秋の日が暮れかかった町角で急に自転車に驚かされることがしばしばあります.多くはランプなしで走って来ますので,こちらは迷惑なのですが,どうも彼らは自分の方からまだ見えるからランプなしで構わないと思っているようです.人を驚かせて迷惑をかけるのは,自分自身にとっておのが存在が明白なので他人にも明白であるとひとり決めしていて,そこに一種の傲慢があるのではないでしようか.自分を見せびらかすのではなく,今走っていますというしるしを持って他人に通してもらう謙虚な心構えが色々な場合に必要です.
この角度からも,光りとしてこの世に来られた神の子を信ずることの意味がわかると思います.自分は何も出来ないで暗闇にとざされていても,光りにいます彼によって導かれ,神からあの創造の時のように“光あれ!創世1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(新共同訳) ”といわれて立上るものが信徒です.罪なくして一度は死の暗闇に落込んで下さったからこそわたくしたちと復活の光りを共にして下さるのです.自分で見えるから大丈夫というのではなく,彼のゆえに,わたくしたちの行く手に一条の光りがあり,また他の人たちにも自分の存在がわかってもらえるような一種のしるしが与えられているのではないでしょうか. 自分はどんなに取るに足らぬものでも,彼から恩恵を受けるだけで光りは十分そなえられるという真理がはたらいて,次第に神の国が近づいているように思われてなりません. |