重荷の重さ

“あえぐもの,重荷を負うものはみなわたくしの所へ来なさい,わたくしが休ませてあげよう”(マタ11:28マタ11:28 すべて疲れたもの、重荷を負うものは、わたしのところに来たれ。休ませてあげよう。 )といわれる救い主の招きに何度力づけられたかわかりません.彼が罪なくして十字架について下さったので罪あるものが救われるのですが,救い主と救われるものとの間に温かい関係が生ずるのは彼の地上の生涯で常に低いところにおられて如何なる人にも愛の労苦を惜しまれなかったという事実があるからです.

 そこでよく思うのですが,他の人が一寸も重荷と思わないことがわたくしには重荷である場合です.そこには時として儀礼的な同情のおこることもありますが,それは慰めにならず,自分自身の弱さに責められるばかりです.そのようなときに,あえぐもの,重荷を負うものはみな誰でも来なさいという救い主のところだけがいこいの場所です.量りにかけた或る規準の重さに堪えるから救われるのでなくて,重荷を感ぜざるを得ない弱さのゆえに救い主に近くしていただけるのです.

 ここにも律法という規準のあるものを行なって神に近づくのでなくて神から救い主を通じて与えられる無条件の恩恵によって救われるという福音の意味があらわれていると思います.

最後の時が近いのを自覚されて“心ははやるが肉体が弱いマタ26:40-41 40弟子たちのところへ来て眠っているのを見、ペテロにいわれる、「そのようにあなた方は一時間もわたしとともに目覚めていられなかったのか。41目覚めて祈れ、試みにあわないように。心ははやるが体は弱い」と。
マル14:37-38 37それから来て、彼らが眠っているのを見ると、ペテロにいわれる、「シモン、眠っているのか、ほんの一時間も目を覚ましていられないのか。38目を覚まして祈りなさい、誘惑に陥らないように心ははやるが、体は弱い」と。
”といわれた救い主は,世の偉人や英雄とは違って,人間の弱さを自らの弱さとする愛の存在でした.どんな罪びとでも彼ゆえに救われるということが,どんなに重荷に圧しつぶされても,弱ければ弱いだけ救い主に近いという角度からよくわかると思います,その救い主が全能の父なる神から遣わされた方であるがゆえに,パウロとともに,弱いときにわたくしは強い(Ⅱコリ12:10Ⅱコリ12:10 それゆえ、キリストのために、わたしは弱さ、侮り、困難、迫害、行きづまりに甘んじます。弱いときにこそわたしは強いのです。 )といい得ると思います.