隠れた神とともに

モーセが大勢の民を指導して色々な世話をしているのを彼のしゅうとが見て,それではあなたも民も疲れるでしょうといいながら,民に定めを与えて教えること,適当な指導者を何人か立てて民の世話をさせることを忠告したのでモーセはそれに従いました(出18:13以下出18:13以下 13翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。14モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。15以下略(新共同訳) ).これは単に事務分担ではありません.自分だけに神の霊が宿るのでなく,民がみな予言者となって神の霊を受けるように,との謙虚な気持がモーセにあったという別の記事(民数11:29民数11:29 モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(新共同訳) )と読み合せると意味深いことです.

そのモーセを悪くいって,神はただモーセによって語られるのではなく,われわれによっても語られる,といった女予言者ミリアムらが神から罰せられたという話しがすぐ続いているのも(民数12:2以下民数12:2以下 2彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。3モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。4主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。「あなたたちは三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。」彼ら三人はそこに出た。5以下略(新共同訳) )深い真理を示しています.神の前にへり下って,多くの人とともに神に近づこうとしたモーセが祝福され,自分の方からモーセにあやかろうとしたものは呪われたのです.

“もしあなた方がモーセを信じたならわたくしも信じたろう”(ヨハ5:46ヨハ5:46 もしあなた方がモーセを信じたら、わたしをも信じたろう。このわたしについて彼は書いたからである。 )といわれるイエスによってこのことはより徹底した形で示されています.人助けをしたときに自らのことを人にいうなと戒めたり(マタ12:16などマタ12:16 そして彼のことを公にせぬよういましめられた。 ),誰が偉いかと争う弟子たちをたしなめたり(マル9:33以下マル9:33以下 33彼らはカペナウムに来た。家に入って弟子たちにおたずねになった、「道すがら何を論じあったか」と。34彼らは黙っていた。道すがらだれか一番偉いか論じあっていたからである。35彼はすわって十二人を呼んでいわれる、「先頭を切りたいものは、皆のしんがりで皆の僕(しもべ)になれ」と。 ),自分に従わなくてもいいことをしているならそれを止(と)める必要はないと教えたり(同38節以下マル9:38以下 38ヨハネは彼にいった、「先生、われらについて来ないものであなたのみ名によって悪霊どもを追い出すのを見ました。しかしわれらについて来ないのでやめさせようとしました」と。39イエスはいわれた、「やめさせることはない。わが名を用いて奇跡を行ないながら、すぐわたしを悪くはいえまい。40われらにさからわぬものはわれらの味方である。 ),偉人のように独走したり宗教家のように勢力を築いたりするのとは反対の方向に行かれたイエスの姿が福音書の至るところに見えます.一人も亡びることのないようにと低いところで人々に仕え,隠れた神とともに生きるさいわいを教えて十字架への道を歩まれた彼の行き方がこの角度からもわかると思います,