後には解ろう

イエスの生涯において著しいことの一つとして,彼が成育されたナザレで親戚たちから冷たくあしらわれ(マル6:3マル6:3 この人は建築家で、マリヤの子でヤコブとヨセとユダとシモンの兄弟ではないか。姉妹たちはここでわれらのところにいるではないか」と。そして彼らはイエスにつまずいた。 ),沢山あった弟子たちも失望して段々去って行く(ヨハ6:66ヨハ6:66 それ以来弟子の多くが離れ去って、もはや彼とともに歩まなくなった。 )など,自らに親しい人々から離れて孤独になって行かれる様です.残った少数の弟子さえも,結局イエスを指導者と仰いで,エルサレムを中心とするこの世的な勢力を築こうとしていましたので,小さく低い人々,罪ある人々を愛する彼がわからなかったのです.イエスは後にはわかるであろうとの確信をもって弟子たちの足を洗うなど人々に仕える僕の態度をとられました(ヨハ13:4以下ヨハ13:4以下 4夕食の席から立ちあがって上着を脱ぎ、手拭を取って体に巻かれた。5それから盥(たらい)に水を入れ、弟子たちの足を洗っては巻いた手拭でふきはじめられた。6そうしてシモン・ペテロまで来られると、ペテロがいった、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いですか」と。7イエスが答えられた、「わたしのすることは今はあなたにわからない。あとで悟ろう」と。 ),これは死すべき時が近づいたことを知って弟子たちと別れの食事をされたときの彼の姿です.

 いよいよ敵にとらえられて十字架上に息を引きとられ,墓に納められたイエスが,三日目に弟子たちの前に栄光の神の子として啓示されたことに復活の音信のはじめがあるのですが,それは弟子たちが十字架以前にはわからなかったイエスのことばと業をわかりはじめて信じたということになります.

彼を信ずるものはすべて救われて復活すると聖書は教えますが,それが単なる教義でなくて,わたくしたちに温かい慰めを与えてくれますのは,イエスがあれ程まで周囲から誤解され冷たくあしらわれて,苦しみながら十字架への道をたどられたという事実があるからといえましょう.それに,彼に冷たかった親戚も後に復活の彼を理解して弟子たちとともに働いたことも(行伝1:14行伝1:14 彼らは皆、女たちとイエスの母マリヤと彼の兄弟たちと心を合わせてひたすら祈っていた。 ),今われらが信仰ゆえに冷たくあしらわれてもすべては後に解決するという希望を与えてくれると思います.責めるもののための祈りへと導かれるのは幸いです.