いわゆる信仰

 何年か前に或る病院を訪れた折に,その図書室にわたくしの著書を寄附しようと思いました.黙って図書室へ行って手続きをすればよかったのでしょうが,相談のつもりである知人に話しましたところ自分たちに委せてくれといわれるままに本を置いて来ました.後でわかったのですが,本は“信仰のある”人から人へと渡っているうちにどこへ行ったかわからなくなったそうです.

 或る学校の聖書研究会が蔵書を持っていましたので,それを学校の図書館に寄附した上で希望者は借り出すことをすすめましたが実行されず,何年か経つうちに本箱はがら空きになりました. “信仰がある”人が信仰に関する本を他人に先んじて読む権利があるとか,信仰がある人の団体だから大丈夫と思うのはどうでしょうか.

 図書室という組織に頼るのではありませんが,いわゆる信仰のゆえに事のすじを通さないところに問題があると思います.自分の信仰とか,信者という名前とかの上にあぐらをかくのは恐ろしいことです.

 事は図書に限らず,社会の施設や組織などすべてにわたって,あたりまえの手続きが信仰の美名のもとに無視されることがしばしばあります.無理をしなくても,与えられるものは与えられるというのが本当の信仰でしょう.

律法や組織を誇ったパリサイ人から見離された不信の人々のためにイエスは苦難の生涯を送って十字架への道を歩まれたのでした.不敬虔なもののために死んで下さったキリストに神の愛があらわれたというパウロのことばも(ロマ5:6以下ロマ5:6以下 6キリストは、われらがなお弱かったときに、時をたがえず、不信のものたちのために死んでくださいました。7義人のために死ぬものはほとんどありません。善人のためには、あるいはいのちを惜しまぬものがあるでしょう。8しかし、まだわれらが罪びとであったときに、キリストがわれらのために死なれたことによって、神はわれらに愛を示されました。 ),いわゆる信仰から離れたところで福音の力をもの語っていると思います.