信仰と信頼 |
どんな罪があろうとも,どんなに神に背こうとも,罪なくして従順に十字架上に死なれた神の子のいさおしのゆえに神はすべての人間を救いたもう,という福音は,何ものにも勝る安心感を与えてくれますが,この神と人との関係が次第に人間同志の関係にも色々な連鎖反応を生んで来ます.あるかないかの信仰も,その信仰ゆえに与えられる数々の友は,どうしてこんなに信頼してくれるのかと驚かされる程の信頼をもって接してくれます. 審きの恐ろしさにおののいて十字架の救いに安心感を見出した人は,他の人を審きません.救いの神を信ずるよろこびは,人にも自分にも失望して孤独に落込んだ人に与えられるものですが,そのよろこびをもつ人は,どんなに孤独でも,信仰ゆえに新しい次元で他の人を信頼する道が開かれます.たとえ信頼を裏切られてもどこまでも信頼する境地です.何時か信頼関係に戻って来てくれるという希望を持つことも出来ます. そうして見ますと,行為によらず信仰だけで救われるという原理が空論でなくて,信ずるもの同志が絶対の信頼によってつながれる,という実際面に力を発揮し,そこに神の国が実現しはじめたしるしがあるといえましょう. 立派な会堂もなく,美しい聖像とも縁遠いわれわれですが,聖書を通じて示される神の国の原理が身近かにはたらいて,信仰ゆえに近しくしてくれる友など目に見える形をとって来ることは何ものにもまさる神の国の象徴です.神殿などいわゆる宗教的象徴のないところに神の国が象徴されるという福音の意味がこの角度からもわかると思います. |