イエスとともに

罪あるものの救いを与えるイエスを神の子と信ずるキリスト教徒は間違っていると思って彼らを迫害していたパウロが,同じく迫害の目的をもってエルサレムからダマスコへ向ったとき,地に倒れ,天来の光を受けて回心の体験をしたことはあまりにも有名ですが,その時パウロが聞いたのは“何故わたしを迫害するのか,わたしはなんじが迫害するイエスである”というイエスの声でした(行伝9:4以下行伝9:4以下 4そして彼は地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。5彼は問うた、「主よ、あなたはどなたですか」と。答えがあった、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。6ともあれ立ち上がって町に入りなさい。そうすればなすべきことが告げられよう」と。 ).

殉教者ステパノが殺されるときパウロは傍に立っていて処刑を是認したのですし,その他迫害を繰返したのですが,それら迫害された信徒たちの声でなく,イエスが迫害されたという声を聞いたのです.イエスが人を恐ることと殺すことを同じにされる(マタ5:21以下マタ5:21以下 21あなた方も聞いたように、昔の人々にいわれている、『殺すな、殺すものは裁きにあおう』と。22しかしわたしはあなた方にいう、すべて兄弟を怒るものは裁きにあおう。兄弟に愚かものというものは最高法院(サンヘドリン)にかけられよう。痴(し)れ者というものは火の地獄(ゲヘナ)に投げ込まれよう。23祭壇に供え物をするとき、そこで兄弟があなたをうらんでいることを思い出したら、24そこで祭壇の前に供え物を置いて、まず去って兄弟と和し、それから供え物をしに来なさい。25あなたの告訴人と早く和解しなさい、彼とともになお道行くうちに。さもないと、告訴人はあなたを裁き人に、裁き人は下役に渡し、あなたは牢に投げ込まれよう。26心からあなたにいう、最後の一コドラントまで払わないかぎり決してそこから出られまい、と。 )のを思いますと,これはわれわれの身近かの問題でもあります.イエスを信じている人に対して間違いをした場合にはイエス御自身を傷つけていることになります.

しかしまた,イエスを信ずるゆえに他の人々から苦しめられたとき,われらの苦しみはイエスに直結するという慰めがあります.自分自身で難行苦行して修養するのでなく,恩恵によって与えられるイエスとの関係ゆえに苦しめられることそれ自体に意味があります.“人々がわたしゆえにあなた方をののしり,迫害しうそをついてあらゆる悪口をいうとき,あなた方はさいわいである”(マタ5:11マタ5:11 人々がわたしゆえにあなた方をののしり、迫害し、うそをついてあらゆる悪口をいうとき、あなた方はさいわいである。 )というイエスとともに苦しみ,彼の救いの事業に加わる光栄を持つことが出来ます.

そこに他では得られない喜びが伴なうのは,彼が苦難の死後に復活して勝利の君になられたからであります.“わが名のゆえにこのような幼児の一人を受けるものはわれ(キリスト)を受け,われを受けるものはわれでなくわれを遣わされた方を受ける”(マル9:37マル9:37 「わが名のゆえにこのような子のひとりを迎えるものはわたしを迎えている。わたしを迎えるものはわたしをでなくて、わたしをおつかわしの方をお迎えしている」と。 )ということもこの角度からわかると思います.