遠獣近神

 人間に動物と共通点があるという事実は否定出来ません.生理作用において殊に然りであることは,薬の効用をしらべるために動物試験をするなどからもわかります.心理の面でも,色々な欲望などが動物と共通します.動物に石をぶつければ怒りますが,これも人間にあてはまることがあります.逆にいいますと,怒りは人間性の弱さと一口にいい切れるものではなく,動物に直結する深刻なものを含んでいないでしょうか.

人間が怒るときの顔は醜いものです.それは獣に近づいた姿といえましょう.怒りや不気嫌が原因で自他の健康を害ね,それがもとで死に至る場合も少なくありません.イエスが人を怒ることと人を殺すこととを同視されたことの意味がこの角度からも理解し得ましょう(マタ5:21以下マタ5:21以下 21あなた方も聞いたように、昔の人々にいわれている、『殺すな、殺すものは裁きにあおう』と。22しかしわたしはあなた方にいう、すべて兄弟を怒るものは裁きにあおう。 ).

被造物のかしらとして,神に像(かたど)って創造された人間が獣の誘惑にかかって罪を犯して神から離れたという思想は,そのまま現代の人間にも適用出来ます.獣的な心理としての怒りからの解放と,神への接近を合わせて考えてみましょう.ののしられてののしり返さず,罪を負って十字架につかれたイエスを神の子と信じて従うこと(Ⅰペテ2:22Ⅰペテ2:22 22「彼は罪を犯さず、口に偽りがありませんでした」。23彼はそしられてもそしり返さず、苦しんでもおびやかさず、正しくお裁きの方に身をおゆだねでした。24彼はわれらの罪をその身に負って十字架におつきでした。それはわれらが罪に死んで義に生きるためです。 )が現実の力を伴なって来ます.

たとえ何が出来ずとも神はわれらを怒りへでなく,われらの主イエス・キリストによる救いの確保へと定めたもうた(Ⅰテサ5:9Ⅰテサ5:9 神はわれらを怒りへとお定めではなく、われらの主イエス・キリストによる救いの獲得へとお定めです。 )という福音が,われらを獣性から解放して人間らしい世界へと導いてくれると思います.信仰のみが真善美を実現して推進するともいえましょう.病にさいなまれた人に神の霊が下ったときの眼の美しさ,自らを苦しめる人のために祈るときに恵まれるこの世ならぬ平安など,人間を神に近づけようとする新しい創造の御業といわざるを得ません.