垂直と水平

 人間との個別的な関係において,また人間の集団である社会との接触において,思いもよらぬ挫折感に閉込められることがしばしばあります.この世のはかなさに絶望して自らの生命を殺す人も少なくありません.われわれも程度や性質の相違はあってもこの世との水平な交渉に行きづまって,神から救われる垂直の世界に導かれているといえます.

 しかし,もしこの垂直の関係だけに止っているならば,出家して自らだけをこの世から離れた聖い存在にしようとする人々と変りません.中世的な修道院の遁世思想もこの部類です.他の人々を放って置いて自分の見神の上にあぐらをかくという自己中心的なところもそこにあります.

 罪あるものにとって神は近づき難いのですが,罪のない神の子が十字架について下さったので救っていただけるのです.この神の子が罪あるものを救う神の愛を実践して,自らに敵するものに奉仕されたことがわかりはじめますと,神からの救いという垂直の関係が神の子を中心とする人間関係という新しい水平の形になって行きます.

この新しい水平の状態には,たとえそこで何が出来ずに人々から冷たくされても,その人々のために祈りますので,神との垂直関係が緊密化されるという不思議な力があります.パウロも,わが願いは世を去ってキリストと共にあること,といいつつも,友への愛ゆえにこの世に止って労苦をつづけたのでした(ピリ1:23以下ピリ1:23以下 23わたしはふたつの間にはさまれています。欲をいえば、おさらばをしてキリストとともにあることです。そのほうがはるかによろしい。24しかし肉にとどまることのほうがあなた方のために必要です。25わたしは確信しています。わたしはとどまって、あなた方の前進と信仰のよろこびのために皆さんの側にいましょう。26それは、わたしによって、すなわちわたしがまたごいっしょしうることによって、キリスト・イエスにあるあなた方の誇りが、いや増すためです。 ),自らが救われることが他の人々をも救いに招くように祈りつつ,キリストによる新しい創造の御業に参画する光栄にあずかるところに,垂直も水平も越えゆく永遠の次元があるといえましょう.