救いの事実 |
ものごとをその場限りで見ないで,時間の流れのうちに現われる色々な例をもって観察しますと,そのことに客観性が備わって来ることはいうまでもありません.救いについても同じことがいえます.教義的に救いとはこうである,とか,自分は救いの体験をしたから大丈夫というのは,それぞれ大切なことですが,それだけですと主観に終る危険があります. 十字架の福音による救いの体験が一時の感激に終らず,そこから生涯の方向づけへと導かれますと,無限の平安が与えられるとともに内外の激しい戦いがはじまります.しかしその戦いの中にも今までになかった平安があります.自分の欲望による戦いでなく,神の愛によって動かされる戦いは,敗れても,或いは敗れれば敗れるだけキリストに似るという平安が伴います.十字架上に傷ついた救い主の姿に慰められるのです.そして復活の彼とともによみがえるという希望が与えられます.この希望が弱い肉体に新しい生命を吹き込んで来ます.このようにして救われる人はその感謝を神に捧げつつ何らかの形で隣り人にも救いの喜びを分とうとしますので,自分の予期しない時に神の愛が伝達されて行きます.聖霊のはたらきと聖書がいうのはこのことです. わたくしの信仰というのでなく,3分の1世紀の間に見た救いの事実の歴史が弱いわたくしを取りかこんで説得してくれます.誌友の祈りと音信も大きな支えです.永遠の神の国が空理空論でなく,この世での救いの御業のうちに客観性を持って示されて来て,多くの人々にそれを伝えようとする資料と意欲を与えてくれます.足が地についた形で全能の神を讃美し得る感謝が深まる次第です. |