目は物語る

 男性にも女性にも家庭が信仰上重要なことはいうまでもありません.特に与えられた医療や教育などの使命によって一生独身で過す少数の人がありますが,そのような人も使命の祝福を感謝すればするだけ,両親が家庭を持ったが故に自分がこの世に生れたことをも感謝しますので,特に自分が選ばれたという自負心を抱く危険も少ないといえましょう.その感謝を物語る目がどれだけ多くの働きをすることでしょう.

 信仰的な家庭を与えられる年若い人々にとって,大切なのはその出発点です.われらは律法から解放されています.それだけに,その解放を与えて下さった救い主の御名によらないで,異なる神の名によって結ばれることは不可能です.気持だけ信じていれば形はどうでもというならば,気持だけ配偶者であれば互いにどこの家へ泊ってもかまわないということになります.

 質素な形で,聖書を読んでイエスの御名による祈りによる出発が行なわれないとき,その生活は危険です.相手が普通の日本人の良識があれば,信仰的に出発したいという気持は理解してくれるものです.自分の信仰にそむいて出発することは,結局相手の人にそむく準備をするのと同じです.

 もっとつきつめますと,人間的な欲望に引ずられて気まずい思いで形式的な出発をするときの顔は美しくありません.そこに禍根がはびこります.どんなに衣裳や御馳走があっても,目が物をいいます.“ひとみ”とはよく言ったものです.打ちのめされて家庭を持つ資格がないと思うもの同志が十字架によってゆるされて結び合わされ,互いの罪をゆるして家庭が築かれるとき,この世ならぬ祝福が与えられて来ます.数多くの実例がこの信仰の秘義を教えてくれます.