
勤労と安息 |
二人の子を持つ母親が感謝の気持ちを顔一ぱいに浮べながら述壊していました――日曜の朝聖書の集りに出席するようになってから,毎日の時間の使い方がわかって来ました,と.これについて思い出されるのは,明治時代に札幌農学校に学んでおられた内村先生ら7人の基督信徒のことです.彼らは日曜に安息を守っていましたので,成績は悪かろうと他の級友から蔑視されていましたが,卒業の時に1番から7番まで皆基督信徒が占めたということです. 安息日聖守はモーセの十戒にありますし(出20:8以下出20:8以下 8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(新共同訳) ),万物の創造神が安息を守られたという信仰によって多くのキリスト信徒が聖日に休むのですが,それを律法化形式化して自らの生活のために利用する宗教家は別として,6日の間の勤労に苦しむものにとっては,安息の日が心身のためになくてならぬものと感ぜられます.汝勤勉なれといって7日間通して働かされる律法でなくて,休めという命令形のうちに何と温い救いへの方向づけがあることでしょう.労働基準でなくて安息基準こそ現代の社会を明るくすると思います. しかし,当時の形式化された安息の規則を破って,安息日にも愛の業をされたイエスは全生涯をもって更に深い安息の意味を教えておられます.労するもの・重荷を負うものを休ませよう,わたくしの軛は軽い(マタ11:28以下マタ11:28以下 28すべて疲れたもの、重荷を負うものは、わたしのところに来たれ。休ませてあげよう。29わたしは柔和で高ぶらないから、わが軛(くびき)を取ってわたしに学びなさい。そうすれば心にいこいを得よう。30わが軛はやさしく、わが荷は軽いから」と。 )との招きの何と意味深いことでしょう.イエスとともに軛を負いつつ勤労するところに真の安息があります.神に愛されるがゆえに誤解をおそれずに他の人を愛する喜びに相通じます.暦の上の安息日もこのことを示されたイエスの消息を学ぶために用いられれば,勤労と安息の彼方において時間の均勢と律動に恵まれた日々の生涯へと導かれるでしょう. |