きびしさの直視

  死が誰の身にも及ぶことは否定出来ない事実です.それを後のことと思う若い人も,肉身の死に会えば,この避けられぬ問題と直面します.また,病や事故という死への連絡口が至るところにあることも無視し得ません.アジアの戦争その他世界状勢が自分の存在を危うくしていることも多くの人が承知の筈です.

 このように,人間に避けられない死が身近かに迫っているという意識が人々をとらえていますので,それを忘れさせるためのレジャーや官能的な宗教がはやるわけです.しかし,それらは一時的な満足感しか与えませんし,欲望は無限ですから,常に挫折感が伴います.そこに罪が色々な形で意識されて不安の素地になっています.現代の疫病といわれる精神分裂症や躁うつ症が恐ろしい勢いなのも意識的無意識的な罪と死の恐怖にもとづくものです.

 きびしい砂漠の風土に接しますと,人間の生命のはかなさが身に泌みます.砂塵を伴う熱風に巻かれれば息も出来ません.そこには死が待っています,このような砂漠の人々にただひとりの神への倫理的な信仰が与えられたのでした.イエスによって無条件の救いへの道が開かれたのですが,それは彼が,罪に苦しむ人々が真先に救われると説き,自らはきびしい死への道をたどったからでした.

 現代の日本にせよ欧米のいわゆる先進国にせよ,風土のよさと戦後の復興に甘やかされて一種のぬるま湯に浸っているところに問題がありましょう.死は誰にも追っています.地上はすべて砂漠です.精神面において殊に然りです.

罪とその結果である死のおそろしさにおののくものは,罪がなくて死んで下さった神の子により頼めば必ず救われて新しい生命が与えられることを,“時が良くても悪くても”(Ⅱテモ4:2Ⅱテモ4:2 みことばをのべ伝えなさい。おりを得ても得なくてもそれに努め、あくまで寛容に教えつつ、導き、いましめ、勧めなさい。 )のべ伝えないではいられないと思います.