信仰のつながり

 戦争前の或る夏の聖書講習会のときでした.地方の純朴そのものの老人が農村の信仰生活について感話をし,山羊乳を生で飲む健康法を紹介しました.それに対して或る若いお医者が加熱殺菌しない山羊乳は衛生上危険であると強く反論しました.どちらも聖書の真理を求めて来た紳士ですし,信仰の根本に喰違いはなかったのですが,乳の飲み方という実践にずれがあったのです.わたくしは殺菌説に賛成しながらも健康なおじいさんの気持ちもわかるように思いました.

 それと前後して,内村先生のお弟子の間に絶対的非戦論と相対的非戦論が公の雑誌の上でたたかわされました.ダビデとゴリアテの戦いとまでいった人もあります.わたくし自らは絶対的非戦論で,もし召集令状が来たら十字架によって罪をゆるしていただこうと思い,また召集されないからとて罪が無いわけではないと思いました.しかし議論中の先輩方が信仰によってつながり,非戦という点で一致しておられましたので,色々な実践の形は審かないことにしていました.

 30年後のこの頃,世の中は変り,信徒の数が多くなったのでしょうか,政治論議も活発なようです.どの形を選ぶかはその人に重大であっても,自己に示された実践の形を物差しにして他の人を審かないことが大切だと思います.

神の審きをおそれるものにとって,信仰のみの救いだけが生きる道です.人との関係も信仰のみでつながれるとき純粋です.それは永遠の世界につながるものです.審きからの解放を持ち来たされた救い主に審くなかれ(マタ7:1マタ7:1 裁くな、裁かれないために )と教えられるところに,審かなくてもよいという温い福音があると思います.