愛の他動性

 色々な宗教で捧げものが行なわれ,その代償として救いが約束されます.ユダヤ教で律法によって犠牲を捧げることが神に近づく道とされたのもその一例です.人間が与えるものと神から受けるものとが交換条件として並べられています.この捧げ物からうわ前をはねる僧職が信者の義務としての律法を至上視するのは当然といえましょう.ナザレのイエスによって捧げ物をする力のない人に無条件に与えられる救いの道が開かれました.彼の生涯と死と復活が人の側から何も求めない神の無限の愛を示しています.

 しかし,無条件の救いとか愛だけならば,慈悲や寛容のように他の宗教や思想にもあります.良識ある人ならばそれを美徳として賞讃するでしょう.

 イエスによって示される愛は,自らを僕として人に与えるところに真の幸福がある,というところへ導く愛です.人間的な努力によらないでよろこびの生活のうちにそれを続けさせます.それが人間に出来なくても神の子が成就したもうたのですから人間は罰されず,その安心と感謝のうちに神の子に示された愛を分相応に実践させていただくのです.ここに神からの愛が更に他のものを愛に導くという他動性があります.真の生命はそれ自体で終るのでなく,他者に生命を与えて他者を生かします.そのように真の愛は他者を愛にします.神の愛を受け,幾分なりともそこに参加させていただくよろこびのうちにエクレシアが形成されて行きます.

 旧約の人々が求めた隣人愛は人間には不可能であり,自らのすべてを捨てて十字架について下さった神の子によって成就され,そこに律法が恩恵として成就されて行くことが,信ずるものにはこの様な角度からも示されると思います.