防火設備と祈禱会

 何年か前に或るキリスト教主義の学校の木造校舎が火事で焼けたとき,日頃祈禱会はよく開いても防火壁その他の設備を怠ったのはどうか,という批判が内外からなされました.

 防火設備さえ完全ならば火事は大丈夫というのは不信者の態度で,これだけ軍隊があれば勝てると思い込んだ戦前の指導者と共通するものがあります.しかし祈禱会を度々開けばそれだけでいいというところにいわゆる宗教の問題点が隠れているといえましょう,自分は信者の名簿に乗っているから救いは保証されているとか,熱心に礼拝に出席しているから大丈夫などというのは皆自分や宗団の行為に救いの基礎を置く考え方で,真に神に頼っているとはいえません.

 人間の力に行きつまるとき,神の力を示して下さった救い主に依りたのむ道が示されるのですが,その道を歩みはじめると,新しく神とともに責任のある生き方をするよう導かれるものです.それは形式的な祈禱会の甘さにひたっているのでなくて,日常生活での建設的ないとなみにあらわれて来ます.律法的な義務でなく,神とともに働くよろこびです.何も出来なくとも罰し給わない恩恵の主につらなる感謝をもって歩む生涯です.

 当然あるべき防火壁を祈りの心をもって建設して,隣り人や学生達の安全をはかるところに真の祈禱会の姿があるといえましょう.

 事はいわゆる宗教と聖書にもとづく救いとに関する重大な問題です.祈禱会よりは一人一人が聖書の本文に親しむこと,という行き方はこれからもますます力を発揮するでしょう.