真の規準

 信仰だけで救われる,といっても,何の規準もなければ不安ではないか,主観的になる危険はないか,等とよくいわれます.

 しかし,信仰は人間の力で信じて仰ぐのでなく,神から恩恵として与えられる“まこと”の関係ですから,そこに規準が設けられると,人間的な束縛が附随する危険があります.その規準を満たそうとする努力が要求されて,弱いものにはついて行けません.また,一つの教会の規準が必ずしも他の教会によって認められないのが諸教会の現状です.

 ここに日頃体験し得る一つの例をとりましょう.友情というものに規準があるでしょうか.貧しさに苦しむときに温かい手を差しのべたり,多くの人からの誤解や攻撃に取巻かれたときに弁護してくれるときに,真の友情がわかって来ます.それが一度や二度でなく,長い年月を経ますと,その性格が明らかになります.

 しかし,人間の力には限りがあります.あの人こそと思っても期待を裏切られることが一生のうちに何度あるでしょう.また,自分を省みて,その人を責める資格のないことに気づきますと,冷たい淋しさに包まれてしまいます.

 そんな時にしっかりと支えてくれる力があります.苦しみを堪え忍んで罪あるものに仕え,十字架上に命を落して下さった神の子イエスです,そして,彼を信ずるものはすべての罪がゆるされて彼とともに復活するという喜びのおとずれです.このような神の“まこと”の表現以上の規準があるでしょうか.聖書は全体としてこの規準を指し示すがゆえにそれを学ぶものに祝福が伴うわけです.歴史はこの規準の力を証しするといえましょう.