律法への招き |
モーセの十戒の中に,偶像を作るなかれ,神の名をみだりに唱えるなかれ,安息日をおぼえて聖くせよ,等の命令があります.これらを徹底的に守ることは出来ませんので,このような律法の束縛から解放して無条件の救いを約束してくれるのはイエスの福音である,と教えられるのが常です. しかし,逆に,偶像を作れといわれたら,われわれはその負担に堪え得るでしょうか.神の名を盛んに唱えて,何時間も礼拝をつづけよ,といわれても困ります.安息日を廃止して毎日働け,と命ぜられるならば,奴隷になれといわれるのと同じです,十戒はエジプトでの奴隷状態から解放して下さった神だけを神とせよということばで始まり,弱い貧しい民を特に愛して救いたもう神の温かいすすめに満ちています.詩篇でも律法が讃美されています(19:7[8]など詩19:7[8]など 8主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。(新共同訳) ). 民を幸福にする律法の精神に従って砂漠を旅し,次第に沃地に落着いたのですが,それ以後エルサレムを中心とする宗教体制が整って,祭司階級が発達し,律法の精神が忘れられたので預言者が戦い,ついにイエスが死をもってその束縛から解放して下さったといい得ます.そのイエスが律法の成就(マタ5:17マタ5:17 律法または預言書をこわすためにわたしが来たと思ってはならない。わたしが来たのはこわすためでなく全うするためである。 )を使命とされたのも,この角度からわかると思います.パウロも人間の罪が人を殺すのであって,律法は聖である(ロマ7:12ロマ7:12 それゆえ、律法は聖であり、掟も聖で義で善です。 )といっています. 自然と人生のすべてが神のおきての下にあり,神は最も低いところに神の子を送って罪あるものを救い,自らのおきての中に招き入れようとされます.無条件の救いは他の宗教でもいわれますが,十字架のあがないは,神のおきてによる秩序に罪あるものを参加させようとの創造的な面があり,ここに福音の特殊性があります. |