片すみか底辺か

 この頃よく片すみの幸福がいわれます.三つのC(カーとクーラーとカラー・テレビ)に加えて四つ目のC(カーペット)が必要などという風潮もあります.商業主義にあおられる消費として見てもこの傾向はやみますまい.国際状勢は悪化し,政治は乱れ,人の心は冷くなる一方なので,せめて自分の生活環境をよくしようという欲求は根強いものです.しかし欲求には際限がありませんし,皆が自分の片すみを要求すれば社会的共同体は成立ちません.増す一方の交通事故も片すみと片すみの衝突といえましょう.

 それゆえに自己を滅却し,この世を避けて清らかな生活をしようといういわゆる宗教的な行き方があります.中世的な遁世思想もその一つです.しかしそれらは結局精神的な片すみに過ぎず,それを求める人々の宗教団体にはこの世以上の害毒がはびこって内と外に衝突を起すことは歴史の示す通りです.

 イエスの行き方は物質的にも精神的にも恵まれない人々の下へ行って,あらゆる意味での底辺で彼らに奉仕しようとされたのでした.その成果が多くの人を引きつけて,王とされる危険があった時に山に逃れられたのですが,それは片すみを求めてではなくて,避難であり,祈りのためであり,また町や村の底辺へ帰って来て,ついに十字架という底辺よりも底いところへ行かれたのでした.

 彼の如く底辺へ行けないが故に彼のいさおしによって救われるわれわれですが,分に応じてイエスとともに底辺にいるときに真の幸福が与えられます.地球が狭くなって片すみが難しくなるこの頃,底辺にこそ神の国の面影があることが段々はっきりして来るようです.