決心について

 まだ中学生の頃でした.ふとしたことで或る伝道集会に出席しました.話しはお説教とはこういうものかと思わせるものでして,集会の終りに決心カードが配られて,名前を書入れた人はお残りなさいといわれましたので,そのまま立去ろうとしますと,そのカードを配った人に恐しい目つきで睨まれましたので逃げ帰ったことを覚えています.

 ついこの間も,決断と題するパンフレットが送られて来ました.外国の資金による伝道会の機関紙で,派手な音楽礼拝,反共連盟の結成,ユダヤ教の人と一緒の聖地巡礼など,この世的な傾向が強く,航空会社やホテルの広告が沢山載っています.聖書の解釈にはどうかと思わせる点が多く,集会の模様は,説教の後で講壇の前へ出ることを求めて,出た人々の名を会衆の前で読むなど,例の型です.

 こうなると,福音とは掛け声ばかりで,結局人の力による決心や決断で天国へ行こうという努力家が仲間を募集しているとしか思えません.決心が悪いわけではないのですが,人間的な行為と福音を混同するのは間違いです.

 ナザレのイエスは,律法を守る決心する力もなく,決心しても守れない人々を求めて,神の愛はそのような人々に先ずあらわれることを教え,律法主義者らの手にかかって殺されて下さったのでした.決心出来ない弱いものが受ける筈の罰を受けて下さったがゆえに,どんな弱いものにも救われる道が開かれたのです.彼の復活の音信は,彼こそ勝利者であり,救われるものにも彼の生命と勝利が分ち与えられる予告です.決心出来ないことを責められればそれだけイエスに近くなり,責める人のために祈りつつ,万事が成就する希望が与えられるのはこのためです.