使徒と信徒

パウロはイエスの直弟子ではなかったので使徒としての資格がないという人が多かったようです.それに対して,パウロ自身回心して復活のイエスに接する体験を有すること,回心以来使徒としての働きをしたこと,その働きは彼の功績でなくてすべて恩恵であること,をいっています(Ⅰコリ9:1以下Ⅰコリ9:1以下 1わたしは自由人ではありませんか。わたしは使徒ではありませんか。われらの主イエスを見たではありませんか。あなた方は主にあるわがわざではありませんか。2たとえ他の人々には使徒でなくても、あなた方にはそうです。あなた方は主にあって、わが使徒性の太鼓判です15:8以下Ⅰコリ15:8以下 8最後に、月足らずのようなわたしにも現われたまいました。9わたしは使徒たちの中で最も小さいもので、使徒と呼ばれるに値しません。神の集会(エクレシア)を迫害したからです。10神の恩恵によってわたしは今あるものでありえます。そして神のわたしへの恩恵はむだにはならず、わたしは彼らすべてよりも多く働きました。それはわたしではなく、わたしとともにある神の恩恵です。11わたしにせよ、彼らにせよ、われらはこのようにのべ伝え、あなた方はこのように信じたのです。 ).彼自身は十字架のイエスに罪をゆるされる喜びのゆえに,何の未練もなくこの世を去りたかったのですが,同信の友への愛ゆえに大きな責任を感じて行動したのでした(ピリ1:23以下ピリ1:23以下 23わたしはふたつの間にはさまれています。欲をいえば、おさらばをしてキリストとともにあることです。そのほうがはるかによろしい。24しかし肉にとどまることのほうがあなた方のために必要です。25わたしは確信しています。わたしはとどまって、あなた方の前進と信仰のよろこびのために皆さんの側にいましょう。26それは、わたしによって、すなわちわたしがまたごいっしょしうることによって、キリスト・イエスにあるあなた方の誇りが、いや増すためです。 ).使徒性の主張もそのためです.回心の体験は過去で,働きは現在,前者は主観的,後者は客観的といえましょう.

 これは形と程度は違ってもわれらが信徒であるか否かの問題と共通します.宗教団体の証明書はなくても,何時からかわれらに聖書を開こうとする気持,祈らずにはいられない心が与えられていないでしょうか.そこにわれらなりにイエスとの出会いがあります.その後目立つ働きは何もなくても,こうして生きていられること,前には呪いに満ちていたこの口から少しく讃美の声が出るのは否定し得ません.いわゆる宗教の要求する形式はなくても,何年かすれば同信の友が恵まれて,そこに恩恵の働きを見ることも出来ます.

 使徒を信徒と読み変えることによって,パウロの論法はわれらの信徒性を示してくれるといえましょう.こんなところからも,何故パウロの手紙を読むと,今日われらのために書かれたような親近感を覚えるかがわかると思います.パウロにならって,誰が何といおうと,その信仰がどんなに小さかろうと,十字架ゆえに罪をゆるされるものは信徒として神に迎えられると明言しましょう.