蛇口(じゃぐち)に思う

 ある発展途上国の人が東京のホテルに泊って,部屋の片すみの蛇口からほとばしる水に感心し,町で蛇口を買って国へ帰って自分の家の壁に取付けたが水は出なかった,という話があります.一寸した笑いぐさとして聞きすごす人も多いでしょうし,花咲(さか)じいさんの収穫だけを見て真似をした意地悪じいさんの無邪気な現代版という人もありましょう.

 しかし,蛇口の話はわたくしに色々なことを想起させます.わたくしに大した学問があるわけではないのですが,学問不在の国内某所から出現してわたくしの仕事場の片すみから何かを持帰り,それを組合わせてどうやら学徒としての体裁を整えかけた人もあるようです.将来何かいい結果になるのを待ってわたくしは忍耐しようと思いますが,蛇口に類する結果だけ持って行っても始まらないことを早く知ってもらいたいものです.

しかし,ひと事ではありません自分が恩恵であると判断した結果だけによって神に感謝することが何と多いでしょう.本当に神の業の徴がわかったからでなくてパンに食べ飽きたがゆえに接近して来た人々にイエスは警告を発しておられます(ヨハ6:26以下ヨハ6:26以下 26イエスは答えられた、「本当にいう、あなた方がわたしを探すのは徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。27無くなる食べ物のためでなく、永遠のいのちへと残る食べ物のために働きなさい。それを人の子はあなた方に与えよう。父なる神が彼にその権限を与えられたから」と。 ).人の罪を負う彼と苦難を共にするところに恩恵があることをあらためて思わざるを得ません.

蛇口やそれに準ずるものを持帰った人を笑わずに,アジアの荒地に水道を引いてあげなかった罪や,学問だけを与えて信仰に導き得なかった罪を思って,謙虚に祈らざるを得ません.永遠の命の水が湧き出る泉(ヨハ4:14ヨハ4:14 わたしが与える水を飲むものは永遠に渇かず、わたしが与える水は彼のうちに湧き水の泉となって永遠のいのちに至らせよう」と。 )を示されたイエスに直接うるおされることの出来る神の国を望みつつ静かに歩みたく思います.