恩恵の場所

 数年前のことですが,某国の教会が組織した世界諸教会調査団の人々がわれらの日曜聖書講座を訪れました.通訳をつけていいかといわれましたので,応諾のうえ,会の邪魔にならないよう最後列でひそひそと通訳してもらいましたところ終りまで実に熱心に聴講していました.讃美歌は英語で唱ったようです.後の感想は,礼拝として申し分なく,聴講者の熱心は類を見ない,ということでした.

 けれども,これは形だけを見たのであって,われらの行き方全体を理解したのではありません.家庭集会の延長といった形で長年つづいて来た集りですが,それは,人的関係を第一にせず,従って来会者の名前を聞くこともせず,皆が静かに来て静かに帰る淡々たる勉強会です.ここに意味があります.雑誌の終りの伝達とか親戚や友人の紹介など,きっかけは色々ですが,根本はどうしても聖書を読みたい,読まないではいられない,という気持です.熱心な信仰でなく,目に見えぬ大きな力に引かれているのです.

 しかし,ことはそれに止りません,何年か出席しつづけますと,顔見知りも出来ますし,クリスマスと夏休み前の昼食会やギリシア語の会や旧約の研究会などで,実に深い友情が与えられて来ます.

 恩恵としてのエクレシアがそれです.人間の努力によって律法的な宗団を組織するか,与えられた場所で恩恵を受け,それによって生きるものが互いに恩恵の主によって近くされて行くか,です.