緊迫感・充実感

 毎月本誌が発送されてからしばらくしますと,数名の読者から受取りや応答が来ます.その中にこんなのがありました――“イエスとカナンの女とのやりとりは読んでいて息のつまる緊迫感をおぼえます.忙しい職場から解放されてひとり学ぶときに……多くの兄弟姉妹が互いに大きな力に支えられていて……ひとり学ぶのではないことの充実感をしみじみと味わいます……”

 これは,文面から筆者以上に多くの意味を読みとった結果の緊迫感です.わたくしは本誌が器として用いられて聖書の真理そのものが読者の魂にしみ込むように,本誌が消えて聖書が愛読されるようにといつも思っていますが,この念願は色々な形で達せられつつあるようです.

 もっと徹底して考えれば,たとえ聖書の文字が読めなくなっても,聖霊によって,イエスが直接語りかけて下さるでしょう.

 このような聖霊に導かれる読み方のゆえに,ひとりではないという充実感が与えられるのでしょう.物理的にはひとりでも,信仰の次元では兄弟姉妹にかこまれていて,神の国の完成の時には顔と顔をあわせて親しく語り合える希望が与えられます.現在でも,何かの機会に集ることが出来て,神の国の面影を示されることがあります.

 われらのエクレシアとはこんな角度から考えられるのではないでしょうか.専従者も土地建物もいらず,人間的には予期しなかった時と所で,罪をゆるされたよろこびを分ち合える共同体です.ことばは通じなくても,生活の形は違っても,聖霊による祈りによってつらなるキリストの体です.ただひとりでいてもイエスがともにいますがゆえに淋しくないのは,信仰にこうした具体性があるからでしょう.