偶像からの解放

 世の中が偶像に満ちていることは今も昔も変りありません.手で刻んだ像でなくても,目に美しく,耳に快く,触れてさわやかで,味や香りのよいものが人を迷わせています.欲望を満たすために人間らしさを失って獣同然になったとき,その人は偶像崇拝者になったといえましょう.しかし,欲望が満たされなかったために,何かそれ以上のものを求めるならば,そこに神への方向が見られます.

 また,この人ならばと全幅の信頼をかけていたのが裏切られて,ひどい目にあうことがあります.そんなときに,人間以上の存在に心を引かれて神を求めはじめることもしばしばあります.裏切られたのは人間を偶像化していたからという場合もありましょう.もっと切実なのは自己の偶像化です.自己に失望すれば自殺か神の発見かのいずれかしか道はありません.

 いずれの場合も根底に人間性の弱さがあります.その弱さのゆえに偶像に仕えるという罪を犯して義の神に敵しているのが人間です.直接神に行くのは難しく,誰か執成すものが必要ですが,それは与えられています.罪あるままに神は自らに敵する人を愛したもうと教え,そのような愛敵を実践し,自らを殺すもののために祈りながら十字架上に僕の姿で死した神の子がわれらに与えられています.何も出来ずとも,信仰する力さえなくても,無条件に救いに招かれるという素晴しい福音の時代がナザレのイエスによって始まっているのです.彼によって新しい命へと生かされるものの集団に神の国の面影があります.イエスのごとく僕として人を愛することに生きがいを感じ得れば,あとのことはすべて解決することは歴史の示すとおりです.