真理を受けるもの

 某大学出身の若い学徒がわたくしの研究室に来ていましたが,広い予備知識が欠けていて困りましたので,大学初年級の西洋古代文学に関するわたくしの講義に出るようすすめました.いつまで経っても教室に姿を見せませんでしたので,聖書の勉強に熱中しているのだろう位に考えていましたが,今さら初年級の連中と机を並べるのは,といった先輩気分があったからということが後でわかりました.彼が狭いパリサイ的な聖書学者にならなければいいがと思っています.

 ヨーロッパの大学で老教授が若い同僚の講義に出たり,白髪の社会人が教室へ帰って学生と討議するのは当りまえのこととされています.老いも若きも真理の前に謙虚であれば,そこに人生と社会を豊かにする学問が達成されるわけです.

 日曜聖書講座も17年目に入りまして,最初からの人と新顔とが一しょですので,時々このままでいいのかと迷うこともありますが,初歩的と思われる諸問題が古参にも講師にも大切なので,やっぱりこのままがいいのでしょう.雑誌のバックナンバーの需要が絶えないことにも関係があるようです.筆にも口にも新鮮な感覚が与えられるのは不思議です.

真理は低く隠れたところにあり,そこに追込まれるものに示されるものです.人間には愚かと見える十字架のうちに神の知恵があらわれる(Ⅰコリ1:23以下Ⅰコリ1:23以下 23しかしわれらは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。彼はユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かです。24しかし招かれたものには、ユダヤ人でもギリシア人でも、キリストは神の力、神の知恵です。25それは、神の愚かは人間たちよりも知恵があり、神の弱さは人間たちよりも強いからです。 )ということは,人間が自らの知恵を誇って互いに争っている現代にますます力を発揮するでしょう.神をおそれることが知識のはじめ(箴言1:7箴言1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(新共同訳) )ともいわれています.知識に振り回されての問題山積のこの頃,急がば回れ,わたくしも若い友とともにこのような聖書の真理を受けて静かに進みたく思います.