パウロの手紙の中で愛に関するところを学びますと,しばしば愛のことが時代の終末との関係においていわれています.古い時代が終って律法を守れない罪びとのためにキリストが死なれた新しい時代にあらわれる神の愛のこと(ローマ5章のはじめロマ5章のはじめ 1かく、信仰によって義とされて、われらは神に対して平和を得ています。これは主イエス・キリストのおかげです。2彼のおかげでわれらは今立つところのこの恩恵へ信仰によって入れました。そして神の栄光への希望を誇りにしています。3そのうえ、苦難にあっても誇ります。苦難は忍耐を、4忍耐は訓練を、訓練は希望を生むことを承知ですから。5この希望は恥をかかせません。われらに与えられる聖霊によって神の愛がわれらの心に注がれるからです。6キリストは、われらがなお弱かったときに、時をたがえず、不信のものたちのために死んでくださいました。7義人のために死ぬものはほとんどありません。善人のためには、あるいはいのちを惜しまぬものがあるでしょう。8しかし、まだわれらが罪びとであったときに、キリストがわれらのために死なれたことによって、神はわれらに愛を示されました。9まして、彼の血で義とされた今、彼によって怒りから救われるはずです。10敵でありながらみ子の死によって神と和解したのならば、まして和解したわれらはみ子のいのちによって救われるはずです。11そのうえ、主イエス・キリストによって今和解を受けたわれらは、彼によって神を誇るのです。 ),この神の愛からわれらを離す権威は現在にも未来にも存在しないこと(同8章の終りロマ8章の終り 31それではわれらは何といいましょう。神がわれらの側ならば、だれがわれらに敵しましょう。32おのがみ子を惜しまずにわれらすべてのために死に渡された方が、どうしてみ子といっしょに万物をわれらに恵まれないでしょうか。33だれが神に選ばれたものを訴えましょう。義となさるものは神です。34だれが罰しましょう。なくなった方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが神の右にいまして、われらにとりなしもなさいます。35だれがわれらをキリストの愛から離しましょう、苦難か、なやみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。36聖書にあるように、あなた(神)のためわれらはひねもす死に、ほふられる羊と見られています。37しかしこれらすべてのうちにも、われらを愛された方によって、われらはかち得てあまりあります。38わたしは確信します、死もいのちも、天使も司も、現状も未来も諸権力も、39高きも低きも、そのほかいかなる被造物も、われらの主キリスト・イエスにある神の愛からわれらを離せないことを。 ),世の終末が近いことを知るだけに愛を実践すべきこと(同13:11ロマ13:11 ご存じのようにこの時代はすでにあなた方が眠りから覚めるべきときです。今は信仰に入ったときよりも、われらの救いは近いのです。 )などが強調されています.有名な愛の讃美歌でも,この世のものが終るのに反して愛は永遠に絶えないことがうたわれます(Ⅰコリ13:8以下Ⅰコリ13:8以下 8愛は決して絶えません。預言はすたれ、異言は止むでしょう。知識もすたれましょう。9われらが知るのは部分的、われらが預言するのは部分的です。10全きものの来るとき、部分的なものはすたれましょう。 ).ほかにも終末と愛との関係を示す例があります(Ⅰテサ5章Ⅰテサ5章 1兄弟よ、その時と場合についてはお書きするに及びません。2よくご承知のとおり主の日は夜の盗びとのように来ます。3「平和で無事」と人々がいうとき、突然の滅びが彼らにのぞむでしょう。それは妊婦にのぞむ苦しみのようで、決してのがれえません。4兄弟よ、あなた方は闇の中にはいませんから、その日が盗びとのように襲いはしますまい。5皆さんは光の子、昼の子です。われらは夜のものでも闇のものでもありません。6それで、他の人々のように眠らず、目を覚まして慎みましょう。7眠るものは夜眠り、酔うものは夜酔っています。8われらは昼のものですから、信仰と愛の胸当てをつけ、救いの望みをかぶとにして慎んでいましょう。9神はわれらを怒りへとお定めではなく、われらの主イエス・キリストによる救いの獲得へとお定めです。10彼はわれらのためにお死にになりました。それは、われらが目覚めていても眠っていても彼とともに生きるためです。11それゆえ、あなた方は今なさっているように互いに慰め、互いに向上させてください。 ;エペ6:14以下エペ6:14以下 10終わりに、主にあって、彼の強さの力によって強くおなりなさい。11悪魔の策略に立ち向かえるよう神の武具をおつけなさい。12われらの戦いは血肉に対してではなく、諸支配、諸権威、この闇の世の諸勢力、天にある悪の諸霊に対してです。13それゆえ神の武具をおとりなさい、悪い日に抵抗しえて、すべてをなし終えて、なお立ちうるように。14竪く立って、真理で腰に帯し、正義の胸当てをつけ、15平和の福音にそなえて足に靴し、16これらすべてにおいて信仰の盾をおとりなさい。それによって悪者の火の矢をみな消せましょう。17救いのかぶとをとり、霊の剣、すなわち神のことばをおとりなさい。18全き祈りと願いにより、つねに霊によって祈りなさい。そのために目を覚まして、全き忍耐とすべての聖徒のための祈りをなさい。 など).
聖書に示される愛は普通の博愛や慈悲とは違って人間中心でなく,愛し得ない罪びとを救うために罪のないキリストを十字架につけて下さった神の愛が基本にあり,ここにこの世が終って新しい神の国がはじまることが示されています.終末と関係のない愛は真の愛ではありません.愛ゆえに苦しんで死を示されるものには自己の亡びという終末の審きにつながる恐しさを体験し,そこに救いへの祈りがはじまります.
逆に,単に末の世とか旧体制の末期とかの終末だけをいって,破壊的批判や審きだけで終るならば,それは人間的な打算を理想化したものに過ぎません.
終末を唱えて暴力に訴える人々が多かったパレスチナで,イエスはその日その時を神にゆだね(マタ24:36マタ24:36 その日その時についてはだれも知らない。天使も人の子も知らず、父だけが知りたもう。 ),人の罪を負って愛の奉仕をつづけ,遂に十字架につかれたのでした.彼を救い主と信ずるよう追いつめられたパウロたち初代の信徒は,この新しい愛とそれによる新しい神の国という終末に目ざめ得たのです.
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