与えることとゆるすこと

 キリスト信徒日常の実践を一口で表現するには“与えること(giving)とゆるすこと(forgiving)”が最も適当でしょう.これにはどの教派の人も異論がありますまい.聖書全体がこの方向を指すともいえます.前者は物質的,後者は精神的であり,ふたつが車の両輪のように実践されるところに神の国をかいま見ることができます.

 しかし,両者とも普通の道徳が奨励することであり,あまりにも当然な善と考えられるだけに真の意味が忘れられがちです.英語などの語形に見られるように,与えること(giving)――ゆるしをも含めて――が両者に共通で,そこに基本線があるのですが,聖書はもっと深いものを示しています.

人に与えよといわれ,自らも与えたく思っても,与え得ない悩みはどうしたらいいでしょうか.本当にゆるして愛し得れば多くを与え得るはずですが,それができないのが現実です.この弱さに行きづまったとき,みずからのひとり子を与えてすべてをゆるしてくださった方がある,と聖書はキリストの父にいます神を示します.神は万物を創造し,人間に命を与えた方であり,人間が罪ゆえに亡びることを欲したまわぬがゆえにすべてを与えてゆるしてくださる方です.人間としては受けることだけが可能ですが,与えてゆるす神によって新しい人間関係に目ざめますと,今までになかったよろこびが恵まれます.それは“キリストと共に万物を与えたもう神”(ロマ8:32ロマ8:32 おのがみ子を惜しまずにわれらすべてのために死に渡された方が、どうしてみ子といっしょに万物をわれらに恵まれないでしょうか。 )の創造の御業に加わらせていただくよろこびです.“受けるよりは与えるほうがさいわい”(行伝20:35行伝20:35 わたしはすべてについてあなた方に示しましたが、このように働いて、弱いものを助けるべきです。そして、主イエス自らがいわれた、受けるよりも与えるがさいわい、というおことばを思い出すべきです」と。 )と救い主がいわれたこともこの角度から理解できると思います.